三つの誕生会(上)

11月から12月初めにかけて、立て続けに誕生祝いを兼ねた集まりがあった。一つは経済学者コルナイの新刊Látlelet(「私の診断」)の出版記念と90歳の事前誕生会を兼ねた会(2018年1月に90歳)。二つ目が映画監督コーシャ・フェレンツ80歳を記念したポートレイ映画上映と対話の会。三つ目がオペラ歌手でリスト音楽院声楽家教授パスティ・ユーリア70歳を祝うコンサート。それぞれ各界を代表する人物で、個人的な付き合いのある友人たちである。

コルナイの出版記念会への招待状が週刊経済誌HVG社からメールで届き、出席の意思を事前に出版社に伝える必要があった。しかし、記念会当日まで、出席申し込みを保留した。というのは、新刊本はハンガリーの政治にたいするコルナイの現状認識を示したもので、「ハンガリーは2010年のFIDESZ政権発足時からU字カーブを描いて、後戻りする道に入った」、「独裁的な資本主義ははたして維持可能なシステムだろうか、中国のシステムを輸入することができるのだろうか」という紹介文が添付されていたからだ。この分析の適時性や正鵠さに頷くことができず、出席の意欲が沸かなかった。
コルナイ経済学との付き合いは40年近くになるが、体制転換前までのコルナイの分析と、それ以後の分析では大きくスタンスが変わっている。体制転換以後は、政治的な発言が多くなっただけでなく、加齢とともに白か黒かという単純な二分法に陥り、分析の面白みがなくなった。だから、コルナイの書籍を翻訳紹介する仕事から手を引いてしまった。唯一、2005年に発刊されたコルナイの自伝だけは非常に良くできていて、ハンガリー語出版から1年も経たないうちに日本で出版(『コルナイ・ヤーノシュ自伝』日本評論社、2006年)することができ、その年の経済学書ベストテンに入るなど大きな反響を呼んだ。しかし、その後も、コルナイの政治経済の現状分析は平板で、それをまとめた書籍の翻訳依頼があっても引き受けなかった。
出版記念会の前日、フィットネスクラブの更衣室で政治学者のケーリ・ラースロー(現オルバン首相の大学時代の恩師)と顔を合わせた折、「明日、コルナイの記念会で会うよね」と声をかけられ、つい「そのつもり」と答えてしまった。「各界からいろいろな人が集まるようだ」とも教えてくれた。10年前にハンガリー経済学会が主催した80歳の誕生記念会には、知人・友人の経済学者のみならず、当時のジュルチャニィ首相夫妻も参加していた。だから、今回も反政権の知識人・学者がのみならず、ジュルチャニィ率いる政党DMや社会党の政治家も参集するのだろうと予想した。
記念会当日、HVG社へ出席の意思を伝えようとしてメールのリンクをクリックしたら、「すでに満席で参加受付は終了」というメッセージが返ってきた。「それでも出席したい方は空席がある場合にのみ入場可能」とあった。これで「行かない」決心がついた。
私は、コルナイが考えるように、「ハンガリーは資本主義経済である」とは考えていない。そのことは2008年と2012年(改訂版)にハンガリーで刊行した拙著Valoság és örökség「現実とレガシー」(Balassi Kiadó)で分析している。資本家がいないどころか、発展した市場経済からもほど遠い「国庫経済」であるというのが、私の主張である。国民所得の半分を国庫に経由させ、補助金行政で動かしている経済にしかすぎない。まして、このようなハンガリー経済を、自生的な市場経済と資本主義企業家が躍動している中国と比べることなど意味がない。コルナイの分析はステレオタイプの類型化に陥って、新しい発見がない。だから、私は体制転換以後のコルナイの現状分析に関心がない。
翌日、ケーリから、「会は大盛況で、多くの学者・知識人で一杯だった。コルナイは2時間も自説を語り続けて、今になって再び最初の著作である『経済管理の過度な中央集権化』(1956年発刊)を再説せざるを得ない現実に直面するとは思ってもいなかった」と意気軒昂に語ったという。そういう話を2時間も聞かなくて済んだのだから、やっぱり欠席して良かった。まして、反政権知識人の政治集会だったのなら、投票権をもたない外国人の私が行く必要もない。私自身は現政権の政策を好ましいとは思っていないが、現政権の政策だけが問題だとは思わない。それ以前に長期に政権を担ってきた社会党も、体制転換以後の経済社会体制の構築に責任があるし、それを支えてきた知識人にも責任がある。それを現FIDESZ政権だけの所為にするのは、あまりに近視眼的な社会分析だ。

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