(新・管見中国 3)
中国の夢 下
豊かで強い、かつての中華帝国の再現を目指す習近平の「中国の夢」―
ともかくGDP総量で世界第2の経済大国となった以上、内には国民生活を充実させ、外では国際的に威光を輝かせねばならない。それがこの時期にトップに立った習近平の背負わねばならない責務である。
しかし、彼が引き継いだ国内は格差がとてつもないほどに広がり、その底辺を持ち上げるにも具体策が見当たらない状況であるというのが前回の主旨であった。似たようなことは他の分野でもよく見られるが、それはおいおい取り上げることにして、今回は外交姿勢について検討してみたい。
前世紀の70年代末に改革開放路線がスタートした当時、外交面で中国がもっとも強く唱えていたのは「覇権主義反対」であった。その対象は主として「ソ連(当時)覇権主義」であったが、時に米国も標的にされ「両覇」という言葉も使われた。その頃、中国の幹部たちは本気でソ連が中国を攻めると恐れていたふしがあり、その時期は1985年ごろだとさえ言われていた。
1978年8月に結ばれた日中平和友好条約の交渉で一番もめたのはいわゆる「反覇権条項」であった。日本側は日中間の条約にそのような条項は不要と反対したが、結局、中國側の強い要求で第2条にそれが謳われた。
「両締約国は、そのいずれも、アジア・太平洋地域においても又は他のいずれの地域においても覇権を求めるべきではなく、また、このような覇権を確立しようとする他のいかなる国又は国の集団による試みにも反対することを表明する」
今、読めば、あってもなくてもいいような条文であるが、当時は明確にソ連を対象とする条文とされ、対ソ関係の悪化を恐れた日本側が反対したのである。
結局、ソ連の侵攻はなく、反覇権主義が色あせて中国がソ連との関係回復に乗り出したちょうどその時、1989年6月、民主化を求める学生たちが天安門広場を占拠していたところへ軍の戦車が突っ込んで多数の死者を出した「6・4天安門事件」が起った。これによって、今度は鄧小平の「韜光養晦(とうこうようかい)」路線が外交の基調となる。これは己の能力をひけらかさずに地味にふるまうといった意味で、事件後に世界に広まった中国バッシングを切り抜けるための苦肉の策であった。
中国の外交は守りの外交に入った。それは中国が選んだ、というよりそれ以外になかった発展モデル、つまり外から資本、設備、技術を呼び込んで、それと国内の豊富な労働力を結び付けて、生産を安価で請負いつつ、技術を学びながら資本を蓄積してゆくという発展モデルにはうってつけの外交姿勢であった。
鄧小平は1992年、自ら南の広東、深圳などを回って、より徹底した開放政策を進めるよう地方幹部の背中を押し(南巡講話)、その後の急速な経済成長への道を開いた。前世紀の90年代から新世紀明けの10年、この20年ほどが中国経済の離陸期間であった。外交的には雌伏の時期であり、靖国神社参拝など日本との歴史問題や台湾との関係で一時的に緊張する場面も見られたものの、対ソ(露)関係の改善、英からの香港返還、ポルトガルからのマカオ返還などを実現して、全方位外交が展開された。そして、2010年、GDPで日本を抜いて、ついに第2の経済大国へ―
このあたりから、脱「韜光養晦」路線の模索が始まり、習の「中国の夢」が登場した。習の「偉大な復興」という「夢」の具体的な内容は明らかでないが、外交的には米との間に「新しい形の大国関係を」とか、「(中国の)核心的価値の侵害は許さない」とかの、硬直路線が目立ってきている延長線上に「偉大な復興」は位置づけられると見るべきであろう。
それにしても今年は習近平の首脳外交、それも彼自身が外国へ出向く外交が目立った。順に並べると、
4月21日~24日 インドネシアでのバンドン会議60周年記念行事に出席。その際に安倍首相と会談、日中関係を修復。
5月7日~13日 ロシア、カザフスタン、白ロシア訪問。ロシアの大戦勝利70周年行事に
参加。
7月8日~11日 ロシア訪問。ブリックス首脳会議、上海協力機構理事会に出席。
9月23日~29日 アメリカ訪問。西海岸で経済人と会い、ワシントンへ移ってオバマ大統領、バイデン副大統領、ケリー国務長官らと会談。NYで国連総会に出席。
10月19日~24日 英国訪問。
11月5日~8日 ベトナム訪問。シンガポール訪問。
11月14日~19日 トルコ訪問。G20、APEC総会に出席。
12月1日~12月6日 仏(COP21出席)、ジンバブエ、南アフリカ訪問。中國・アフリカ協力会議出席。多数のアフリカ各国首脳と会談。
年初は例年3月に全国人民代表大会が開かれるので、首脳は外に出にくいが、その後は6月と8月を除いて、毎月どこかへ出かけている。お隣りの首相も外遊好きで有名だが、それに劣らない。それに中國は習近平外遊の合間にかなりの頻度で李克強首相も外へ出る。
勿論、出かけるばかりでなく、それ以上に外国の首脳が中国を訪れる。特に今年は、春は中国主導で設立しようとしていたアジア・インフラ投資銀行への参加国を精力的に集めたし(結局60か国近い参加国となった)、秋は9月3日に「抗日戦争勝利70周年記念軍事パレード」を挙行した。近隣の首脳で参列したのはロシアのプーチン大統領と韓国の朴槿恵大統領だけだったが、国数としては50か国以上の代表が顔をそろえた。西側主要国としては10月に独メルケル首相が訪中、同30日に習近平と会談、11月には仏オランド大統領が訪中、同3日に同じく会談している。
これだけ世界中を相手に派手に外交を展開しているとなれば、鄧小平時代の韜光養晦路線は過去のものとなり、外交大国としての「中国の夢」はすでに実現したと言っていい。
今週14日の「人民日報」傘下の国際情報紙「環球時報」に王毅外相の「今年の中国外交をふり返る」一文が載ったが、彼がそこでまず「2015 年は中国の特色ある大国外交の全面推進の年であった」と総括したのもむべなるかなである。
しかし、今年の外交大国ぶりには際立った特徴があった。9月の習近平訪米と10月の訪英(及びその後の独メルケル、仏オランド両首脳の訪中と合わせて)との間のあまりの空気の違いである。
王毅外相は習訪米について「歴史的訪問が成功し、中米間に新型の大国関係を構築することで重要な共通理解が確認された」と述べているが、これは国内向けの潤色である。実際は中国がのどから手が出るほどに米と一緒に唱えたい「新型の大国関係」の一言がオバマ大統領の口から出ることはなかった(これまで米当局者がこの言葉を使ったのは昨秋、ライス大統領補佐官が1度口走っただけである)。それどころか南シナ海の人工島問題でオバマ大統領が堪忍袋の緒を切らし、直後に米艦をあの海域に派遣したのは世界中が見たところである。
ところがその後の訪英から雰囲気ががらりと変わった。王毅外相は「スーパー訪問」などと妙な言葉を使っているが、なにしろエリザベス女王の住まいであるバッキンガム宮殿を宿舎に提供されるという破格の待遇を受けた。それに答えて習近平も総額400億ポンド(7兆4000億円)の商談をまとめたとされる(この数字は過大すぎるという説もある)。その中には2つの原発(1つは中国技術の「華劉1号」モデルを輸出、1つは仏技術で新設される原発に中國が出資)、英国中部で計画中の高速鉄道への中国の協力といった大型案件が含まれる。
3年前にキャメロン首相がチベットから亡命中のダライ・ラマに会ったことで、関係が冷え込んだことなど、双方とも忘れたように経済連携の成果を謳いあげた。
習の訪英に続いて、10月29日、独のメルケル首相が訪中した。ここではエアバスの旅客機A330を30機、A320を100機の購入契約を結んだ。お値段合わせてポンと170億ドル(約2兆円)。李克強首相は「中国はドイツにとって巨大な市場になる」とメルケルを喜ばせた。
またその直後の11月2日、仏のオランド大統領が訪中した。今度は経営危機に陥っている仏の原発大手、アレバに救援の手を差し伸べた。中國原発大手の中国核工業集団がアレバと「資本関係を含む」協力を強化する覚書が習、オランド立会いのもとに調印された。詳細はまだ不明だが、年内に詳細を詰めることになっている。
さらにつけ加えれば、12月のアフリカ訪問では5日、南ア・ヨハネスブルクでの「中国・アフリカ協力フォーラム」で、習はインフラ投資や協力プロジェクトに今後3年間で600億ドル(7兆3600億円)を拠出することを表明した。
なんとも気前のいい話の連続である。他人の懐具合を心配することはないのだが、ご承知のように今年、中国経済は大後退を演じた。経済指標は軒並み前途の多難を窺わせる。その中での大盤振る舞いである。これを倒産寸前の会社がまだ大丈夫だと見せるための芝居だとまで酷評するむきもあるが、その真偽のほどは別にして、見ていると涙ぐましいまでの「大国ぶり」である。足もとのアジア諸国や米から警戒の目を向けられているからこそ、他地域では「大国」と同時に「大金持ち」を売り込んで、味方を増やそうという古典的な「遠交近攻」策なのかもしれないが、なにが習近平をそこまで駆り立てているのだろうか・・・。
次回はあらためて中国国内に目を向ける。(151214)
初出:「リベラル21」より許可を得て転載http://lib21.blog96.fc2.com/
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〔opinion5810:151216〕