本サイトで中国社会の発展とマルクス主義の関連をとり上げて論じている論客がいる。彼は中国社会は歴史上、マルクス主義の影響は受けてこなかったといいたいようで歴史上の人物に対してもかなり批判的にみているように感じられるので、批判者の見解と呼んでおこう。例えば、批判者は1949年から1966年以後10年間の文化大革命にかけて、毛沢東はかなり暴力的な圧政のみを行ない何ら政治的実績を残さなかったようにいっている。そして私は文化大革命以前の時期から革命期にかけては何1000万人の死者(大部分は餓死)を出したことをも知っているのだが、私は何とも腑におちない感じをもっている。それは毛沢東が、1940年代に出版された日本のマルクス経済学者『河上肇』先生の著作『経済学大綱』を読んでいたという話もあるし、それ以前からヘーゲル哲学をきわめて尊敬していたインテリであったという話も聞いていたからである。
私が30年前に中国に行ったのは上海の対外貿易学院の宿舎に一週間宿泊できる機会をえたためであり、この大学で日本の高度成長期における金融の話をするためであったが、そこで多くの学者や長老達の話を聞く機会をもった。そこでもっとも印象に残ったことは、現在の中国では人々が食べられるようになったのは、第1に毛沢東、第2に周恩来のおかげであるということである。人々は口々に尊敬と崇拝の念をもってこう語っていた。それ以来私も一度もこのことを疑ったことはない。事実、当時文化大革命以後2~3年をへずして毛沢東は死去し、壮大な葬儀が行われたが、その際数万人の大衆が参列したと記憶している。私達が学生時代に読んだ毛沢東の『矛盾論』や『実践論』と共に毛氏が何を考えていたかは、そう簡単に理解できることではなかろう。
次に批判者はマルクス主義という言葉を使いながら、それがマルクスのイデオロギー、革命の戦略論、経済学説(『資本論』を中心とする)等に分たれること等に関心を払っていないようである。もっともこの中の何れも社会主義をめざす社会に技術的な意味で直ちに役立つというのでもない。これらの思想、学問を身につけておれば、アメリカ型の資本主義経済を成立させえないというだけである。すなわち指導者は、封建社会のような社会から脱出させることができるであろう。
次に批判者は日本において日本のマルクス経済学者が、今世紀に入るまでの30年位のあいだにどんなに苦労してきたかについて何も知らない。私は大学の講座は金融論であったが、『資本論』における貨幣論や信用論を基礎とする、マルクス経済学的金融論を専門としてきた。従来からマルクス経済学に対立する経済学は、近代経済学(あるいは現代経済学)という名称で呼ばれてきたが、そして両者は平和的に並存していたのであるが、1970年代以後ソ連の経済体制が成功裡に運営されなくなるにつれ、学問の世界でも次第にマルクス経済学の陣営は、近代経済学の陣営から圧力を受けるようになってきた。マルクス経済学などは学問ではない、とか単にイデオロギーにすぎない、といわれるようになってきた。それは、例えば講座を担当する人事面でも現われてきた。例えば私の大学の経済学部では、国民所得論という講座があったが、以前はマルクス経済学者が担当していたにも拘わらず、その人が定年退職すると今度は近代経済学者がこの科目を担当するようになった。こうした科目はいくつもある。さらに重要なのは経済原論である。私の大学の経済学部では、1980年代以前では経済原論は(1)(2)(3)に分かれており(1)はマルクス経済学、(2)は近代経済学(ミクロ)、(3)は近代経済学(マクロ)と分かれており、必修科目はそのうちの一つで、どれをとってもよかったが、80年代以後は、原論(1)がミクロ経済学、原論(2)がマクロ経済学、原論(3)がマルクス経済学に代った。マルクス経済学の退潮は明らかであった。反対に近代経済学者達のふる舞いは高ぶったものとなり、自分達の経済学こそ日本経済を発展させるものだとして大手を振って歩くようになった。経済学部のスタッフも圧倒的に近代経済学学者がふえた。ソ連型社会主義が崩壊した1989年、東欧が崩壊した91年以後、数年間はこうした状況だったと思う。
ところが今や世界の諸情勢は変わった。
米国を始めとする市場経済のEU諸国は、ドイツを除けば経済が少しもうまくいっていない。どこの国も格差と貧困に苦しんである。近代経済学がいかに発展しても、この学者を輩出している国々は少しも豊かではない。私も近代経済学を多少は学んだ者ではあるが、現在は近代経済学の限界が現れているような気がする。学問が現実の資本主義経済を動かせる等ということは、やはり幻想にすぎない。日本のアベノミクスにしても、日銀の金融政策(2%の物価上昇を目標とする)にしても、政府の財政政策(累積赤字が1050兆円をこえた)にしても、成長戦略にしても、決してうまくいってない。政府は私達をどこに導こうとしているのであろうか。
これに対して世界ではただひとり中国のみが発展し13億人の人民大衆を習近平が率いてGDPを引き上げようとしている。習近平の講話はマルクス主義の原理にもとづいている。彼の説く講話は確かに批判者が説くように若干の誤謬や誤解が含まれているかもしれない。しかし現代の中国社会をみれば、それはそれ程問題ではない。中国の経済体制は社会主義を追求するとはいいながら実は資本主義だという人も多いが、決してアメリカ型・またはEU各国の市場経済形の資本主義では決してない。やはりこれまでとは違った経済システムを求めているのである。現在はかつてのシルク・ロードを連想される一帯一路の建設に邁進しているようであるが、どのようなものが建造されるのか、高齢化した私には想像もできない。とも角、中国は1980年代から90年代にかけて成長率が20%以上に及ぶ程の発展をとげてきたのであり、現在はやや停迷しているとはいえ少し長いスパンでみれば、健全な社会を築いていくのではあるまいか。
この点は私達のようマルクス経済学者にとって大変喜ばしいことである。マルクス学説を軽視する風潮は確かに減退したようである。何しろ今や世界一をめざして先頭をきって走ろうとしている国がマルクス主義の原理を尊重しているという事実があるためである。この点は私は感謝してもしきれない思いがする。日本は表面上は中国と友好的関係を保たねばならないからである。中国は共産党一党独裁の社会でありそれ故民主化が遅れ人々を統制することが多いといわれている。だが実態はどうなのか。私は社会主義理論学会の会員であり年に一回位は慶応大学で中国人学者数人と議論する機会がある。皆中国においていかに民主主義化を実現するか、等のテーマに取りくんでいる。そして私の見るところ、次第にマルクス主義と『資本論』に対する理解を深めている感じがする。
現在、世界は急速に変化しつつあるかにみえるが、ゆっくり落ちついて慎重に見極めることが肝要と考える。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
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