――八ヶ岳山麓から(62)――
習近平が昨年末の中国共産党大会で党主席となり、この3月正式に国家主席に就任したが、日本にはその前から一部に中国共産党の政治支配は危ういという見方があった。
例えば、福島香織は著書『中国「反日デモ」の深層』(扶桑社 2012)で「中国に“革命”は起こるのか」を論じた。
チュニジアやエジプトで「ジャスミン革命」が起きたとき、中国でも体制改革を期待する向きがあった。このときツィッターのわずか1本の呼びかけに、中国当局は1000人以上の反体制言論人に禁足をかけ、100人以上を拘束し、国家政権転覆扇動容疑で逮捕者まで出した。
これを評して、福島は「中国当局こそ『革命』の可能性を真に恐れていることが垣間見える」という。何人かの(日本の?)編集者や記者からの「中国で革命があると思うか」という質問にも、「私は『革命』という言葉を慎重に『体制変革』と言い直して、中国国内の状況は、体制変革が起こり得る条件がかなり揃っていますよ、と説明した」とのことだ。また「少々大胆なことを言えば、5年後の2017年、習近平政権一期目が終わ(る)……年に最初のクライマックスを迎えるかもしれない」ともいっている。
また、本ブログ「2013.02.23 中国をとらえる新世代ライターのリアリズム」のなかで丹藤佳紀氏が紹介した日本総研理事呉軍華も「2017年からの5年で中国が民主主義体制への『静かなる革命』を実行する可能性が高い」といっている。呉のいう「静かなる革命」とはソ連のような内部崩壊か。だとすれば習近平はゴルバチョフになるのか。
福島・呉は「……かもしれない」「可能性が高い」として逃げを打っているが、いまから4年後くらいから中国に転機がおとずれるというのだろうか。これには驚いた。どんな根拠があるのだろうか。
「体制改革」「革命」といえば、中国では多党制と普通選挙を含む議会制民主主義への変化、すなわち官産軍複合体である中共を政権の座から追落すことだ。もっとも初歩的な政治改革は現行憲法の民主人権条項の完全実施だが、現状では習近平・李克強政権が民主主義への強い意志をもち、独裁的権力をもたなければやれないことだ。それは集団指導体制の現在では考えられない。
「体制変革」「革命」には体制側が統治能力を失っていること、さらに変革主体が体制側を上回る政治力をもっていること、また軍が少なくとも中立の立場をとること、といった条件が整わなくてはなるまい。統治能力の喪失状態とは、中国近現代史では清朝末期アヘン戦争後、最近ではブレジネフ後のソ連共産党状態である。軍の中立とは最近のエジプト革命にみられた。だが、北朝鮮の労働党ですら国民を極貧状態に置きつつも権力を維持している。これに比べたら中共の統治能力は(良し悪しは別として)はるかに高い。
私も社会意識の底流には政権への根強い不満があることを知っている。中共中央が「中国共産党がなければ今日の中国はない」とスローガンを叫べば、「老百姓(普通の人)」は「共産党がなければ別な中国があったはずだ」とつぶやくのだから。だが、社会に不平不満があることと「体制変革が起こり得る条件が揃っている」こととは異なる。
こういう「老百姓」でも中国が北京オリンピックや上海万博を成功させたこと、リーマンショックでも4兆元の政府投資で素早く立ち直り世界中から頼りにされたこと、アメリカと対等にわたりあい日本を威嚇できるまでに上昇したこと、つまり「富国強兵」の中国を実現したことを誇りに思っている。今後7%の経済成長率が続くのは怪しいとしても、やがてはGDPでアメリカを超える。その時こそ偉大な中華民族の復興のときだと思っている。そしてこれを習・李政権に期待している。
党組織もいまはまだ健全である。日本のメディアはしばしば官僚の腐敗現象を報道する。だが職務にカネが付きまとうのは秦帝国以来2200年の中国の伝統である。「老百姓」も贈収賄をある程度はしかたないと認めているし、多かれ少なかれやっている。中共組織は郷村党支部幹部から最高指導部まで職階に応じて権益を持っている。権益があるからこそ、上からの統制も効くし下部は下部なりに体制維持の努力をする。もし清潔で民主的な統治機構が生まれ権益がなくなったら、各レベルの官僚は現体制を維持する積極的意志を失い、公務員になりたがる学生も激減するだろう。
中共は中央地方の行政機構に「精英(エリート)」を取込む一方で、政治改革を主張する知識人の言論を一定の枠の中に閉じ込めた。福島は反体制派の言説を多く取上げるから、福島の本を読めば反体制的世論がかなり有力だと感じる人がいるかもしれないが、それは実際とはずいぶん違う。たとえば北京・上海で、獄中にある劉曉波がノーベル賞を受けたことをどのくらいの人が知っているか。
中国には強力な治安機関がある。防衛予算を上回る治安対策費によって安全部(戦前の特高を連想させる)を先頭に武警・公安が反体制派に対する監視と情報探索をして反革命を防止している。ジャスミン革命の呼びかけに当局が1000人もの人に禁足を課し100人も逮捕したのは、福島がいうように革命の可能性を察知したからではない。それぞれの治安機関が「政績(行政上の業績)」を上げるためにやったことである。
これにひきかえ反体制派には組織も指導者もない。民族運動も同じで、中共中央はしかるべき人物を抑えこみ、投獄し、国外に追放したから力は分散している。インターネットと「微博(ツィッター)」は一定の力をもつが過大の評価は間違いだ。締付けが厳しく影響力が限られるからである。
都市住民をみよう。とくにエリートではない青年の、前途に対する鬱屈した気分は深刻だ。たとえば結婚しても住宅暴騰のためアパートを買うのは絶望的だ。だが、だからといって反体制になるわけではない。「小泉総理の靖国参拝」だの、「日本による釣魚島の国有化」だのに反対せよと動員がかかれば、反日抗日の気分は根強いから、それぞれの想いをいだいてデモに参加する。
日頃の憤懣を爆発させて、日系店舗や車を壊したりして暴れるのは、都市最下層の農民工(出稼ぎ)か農民工二世が中心である(農民工については、後述する阿古智子の著書参照)。「老北京(北京子)」はそれを見て「教養のない連中は何でもやらかすねぇ」とあきれ、なかには「早く日本とドンパチやってくれないかなあ」などとぼやくものもいる。陰では官僚の資性低劣を糾弾しても、都市の反日デモは容易に反体制デモに変わるものではない。その可能性は否定しないが、変わったとしても微力である。反日はやはり反日で強烈である。
農村を見よう。阿古智子は『貧者を喰らう国』(新潮社 2009)のなかで、対策のまずさによるエイズの蔓延・都市農村の二元構造(差別的な農村戸籍)・無権利の農民工(出稼ぎ)・地方政府によって土地を失った農民・貧困学生などについて、自ら調査をした結果を明らかにした。同書にある中間・末端権力は、強欲で狂暴で強靭である。
年間18万とも20万ともいわれる集団暴動は確かに中共支配の弱点である。だが暴動件数の多いのは、比較的豊かで権利意識が比較的強い都市近郊の農村である。ここには事件を国外メディアに伝える方法を心得ている人がいることもある。そうでない地方では、地方政府の不正行為に追い詰められた人々が「上訪(陳情)」に北京に行く。多くの農村ではあきらめが先に立っている。阿古の著書内容は、チベット農牧民の無権利状態を見てきた私の実感と重なりあう。
習近平・李克強政権には、「未富先老(カネがないのに働けなくなる)」問題、土と水と空気の汚染・不動産バブル、年金・保険医療がない農村、さらには地方政府の巨大債務など解決すべき課題が多い。だが私は、習・李政権が内政外交で連続して失敗をしたり、そのことによって生ずる上層部内の争いに敗北したりしない限り、比較的安定した基盤に立っていると考える。
胡錦濤・温家宝政権が発足した2001年当時、「最後の共産党政権になるかもしれない」という中国人がいた。私は以上に述べた内容と似た理由をあげて、「そうはならない」といった。習・李政権はどうだろうか。いまのところ中国社会には反米抗日の気分はあっても、「体制変革」「革命」はその匂いすらなく、最後の共産党政権になる気配はない。
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