偉大な歴史学者、先駆的な左翼だった農民・伊藤富雄の生涯

――八ヶ岳山麓から(268)――

長野県の諏訪神社は全国に1万社余りあるという諏訪社の本祠である。諏訪湖をへだてて南北に上社・下社があり、古来の特異な神事が残されていることでも知られている。

宮地直一氏(1886~1949)は戦前内務官僚として神社行政に携わる一方、国学院大学教授、東京帝国大学教授を歴任した神道学者である。彼は大正10(1921)年『諏訪史』編集のため諏訪郡中洲村(現諏訪市)の諏訪神社上社に滞在し、神官の長で神長官と呼ばれる守矢真幸家に所蔵されている室町時代の古文書「守矢家文書」解読にとりくんだ。ところがこれが難解この上なく、非常な苦闘を強いられた。

宮地氏からこのときの様子を直接話を聞いた考古学者藤森栄一氏(諏訪出身)によると、宮地氏が『年内神事次第日記』の難解部分に困惑していたとき、背後に近づいた人物があって、その難文をすらすらと読んだ。宮地氏は神の声かと思ったというが、見ると容貌魁偉(ようぼうかいい)、大入道のようで着流しにだらりと兵児帯をたらした百姓のおやじだった。こんなに驚いたことはなかったという。
宮地教授を驚かせた百姓おやじは、中洲村の農民・伊藤富雄(1891~1969)である。1937年『諏訪史第二巻』の後編が刊行されたが、氏はその後記のなかで「後編につき絶えず指導を受けたのは、本郡中州村下金子の篤学者伊藤富雄氏である」と書いている。

伊藤富雄氏は農業のかたわら、25,6歳のころから諏訪神社神長官守矢家に残された鎌倉時代から室町時代にかけての古文書解読を志した。もともと上諏訪町(現諏訪市)にあった旧制諏訪中学(現諏訪清陵高校)に1番で入学した秀才である。ところが「1番でなければ退学」という父親の方針があって、3年1学期のとき母親の出産で田植に追われて2番に下がったらすぐに退学させられた。
だが秀才だからといって、鎌倉・室町時代に神官らが自己流で書いた古文書をすらすら読めるわけではない。彼も「神社の神官に訊ねて見ても、大学の先生たちに質問しても誰も之を読解し得る人がありません。わたしは、祖先の残した記録でも五、六百年経てば、もう子孫には、わからなくなてしまうのかと、つくづく情けなく思い、同時に私の糞意地がこれを読み翻さないでおくものかと、発奮したのであります」といっている。
ノートに文書を書き写し、難読文字を〇にしておき、読み進んだところで前後から判読するといった努力がつづいた。このため、「研究資料入手の見込みのある所は、暇さえあれば、狼の飢えて食を求むる如く、猟りあるいた」といい、田の草取りから昼飯に帰り、資料を寝ころんだまま読みふけり、妻の一喝を食らって気がつけば日はすでに斜めであったとか、「家人の干渉を防御するため、真昼間に土蔵に入り中から心張棒を卸し」て資料を読んだという。

数え年22歳のとき父が亡くなった。彼には長男として弟妹5人を一人前にする責任があった。自作地60アールのほか、田畑2ヘクタールの地主で年50俵の年貢米があった。そのうえ父親の遺産7000円があったから(当時米麦が自給できれば月生活費は30円という)、弟二人を東京帝大、ひとりを陸軍士官学校、他の弟妹も中学、女学校を卒業させた。村の役職もひきうけ、昭和16(1941)年から中州村産業組合(現農協)の組合長をやり、1945年敗戦直前には村長を兼務した。

敗戦は彼に大きな衝撃を与えた。政治嫌いの民族主義者は「政治開眼」した。彼は日本再建のためには勤労大衆のエネルギーのほかないと、日本社会党に入党して農地改革を先導した。昭和22(1947)年第1回地方選挙には当時の衆議院議員林虎雄を擁立して民選知事として当選させ、自身も中州村村長に当選した。同年5月社会党県連委員長となり、6月副知事に任命され、供出米不足のため各地の農家にコメの供出を懇願して歩いた。
ところが23年夏、地方労働委員選任問題に絡み、絶大な権力をもつアメリカ占領軍軍政部長野県施政官と衝突し、11月には副知事を辞任して帰郷した。このとき県知事林虎雄の占領軍への対応の仕方を批判し、「虎サは弱い」と発言して、一時は地方の話題をさらったことを幼かったわたしも記憶している。

下野した伊藤氏を周りが放っておくはずはなく、とりわけ共産党は伊藤家に泊まり込みで入党工作をやり、伊藤氏はその勧誘に陥落した。とはいえ、彼はマルクス主義・社会主義への知識がないまま共産党に入党したのではない。自身、27,8歳のころから社会主義に関心を持ち始め、『共産党宣言』などを愛読したと述懐している。ロシア革命、大正デモクラシーの風潮は山国信州にも及んでいたのである。
彼は1949年から国政選挙に2回共産党から立候補して落選したが、それは共産党書記長徳田球一の側近伊藤律氏の説得によるものである。伊藤律氏は一時尾崎・ゾルゲ事件のスパイとされた人物である。50年には共産党中央が分裂、一部は武装闘争方針を掲げたから、それへの対応も伊藤氏の苦労のたねだったと思う。その後彼は、共産党の弁護士林百郎のために尽力して、64年にはみごと林氏を国政に返咲かせた。林氏は敗戦直後2度衆議院議員に当選したがその後は落選続きだった人物である。
伊藤氏の晩年は文筆活動が主になった。

伊藤富雄は一概に郷土史家といわれるが、研究領域は諏訪地方にとどまらず、時代も古代・中世にとどまらない。また行事・神事などの民俗に限定されることなく、政治社会経済にわたり、実証的な記述を基礎に、今に過去の人民の生活をいきいきとよみがえらせるものである。
神社の神事・行事はがんらい保守的、尚古的なものである。それを記録した中世の古文書には古代の政治的、社会的状況が色濃く反映している。彼はこう考えて古代史を考察した。たとえば古代諏訪・伊那地方には独立した小国家があり、それが大和朝廷の力に屈服してゆく過程を明らかにしたのである。

わたしが感銘を受けたのは「諏訪史第三巻批判草稿」である。これは、当時著名な日本史学者渡辺世祐教授が担当した『諏訪史第三巻(諏訪の中世史)』(1954年刊行)がもつ誤謬、欠落などをいちいち指摘、批判したものである。この類のものはほかにも数あり、中央の学者の権威に遠慮することなく、精密に史料を駆使して真偽をただし自説を展開している。かくして諏訪から伊那にかけての市町村史(誌)の古代・中世史部分はたいてい彼が執筆したものとなった。
1969年1月、この碩学は世を去った。78歳であった。

膨大な著作は、1970年代に至って子息麟太郎氏によって編集され、『伊藤富雄著作集』(全6巻)として刊行された。すでに諏訪地方でも伊藤富雄の名は忘れ去られつつある。年配者が「あれは偉い人だった」という程度で、じつに残念といわざるを得ない。
以上は『伊藤富雄著作集』(永井出版企画、1987年)、『藤森栄一著作集』(学生社、1986年)によった。(2018・10・10記)

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