―八ヶ岳山麓から(73)―
最近、丹羽宇一郎元駐中国日本大使の著作(口述筆記らしい)『北京烈日』(文藝春秋)が出版された。尖閣諸島をめぐって日中関係が緊張しはじめたとき、私は中国西北の青海省で生活していた。あの日々を忘れられないので同書には大いに関心があった。内容は、尖閣諸島問題のほか、アベノミクス批判、企業経営と投資、人口食糧、日本農業、教育問題、中国経済や日本経済の見方、習政権とのつきあい方、外交のしかるべきありかたなど、過剰なくらいもりだくさんだが、ここでは三つの分野だけ見ることにする。
「第1章『尖閣諸島問題』のあとさき」が書名『北京烈日』になったと思うが、その分量はごく少ない。
丹羽氏の赴任間もない2010年9月7日、漁船衝突事件があり、日本政府は船長を逮捕・送検した。中国が強硬な対抗手段をとったので「日本の国内法に基づき粛々と対応する」(前原誠司国土交通相、当時)ことはできず、9月24日には船長を那覇地検の判断で釈放するという、みっともない結果になった。
ここから尖閣問題は泥沼の道を歩む。
2011年4月、石原東京都知事(当時)が、東京都による尖閣諸島購入計画を発表した。野田内閣は動揺した。丹羽氏は、中国にとっても想定外のできことだったことは間違いないという。
6月、丹羽氏は英紙「フィナンシャル・タイムズ」とのインタービューに応じて「もし計画が実行されれば、日中関係にきわめて深刻な危機をもたらす」と警告した。野田内閣の閣僚をはじめメディア、識者と称する人々は丹羽大使に越権だの弱腰だの国益に反するだの、猛烈な非難を浴びせかけた。氏は著書の中で、「その後の日中関係が一触即発状態に陥ったのをみても、しごくまっとうな警告だったと考えています」と胸を張っている。
両国が抜き差しならぬ状況に陥ったターニングポイントは、2012年9月9日、ウラジオストクのAPEC会議での日中両首脳の「立ち話」であった。野田首相は胡錦濤主席の「国有化」中止要求を蹴飛ばした。二人の間にどんな会話があったか、いまだ誰にもわからないが、丹羽氏は、そこで「『何か』が弾けたのではないか」という。でなければ、翌10日に国有化宣言、11日に閣議決定までしたことの説明がつかないというのだ。
何が弾けたというのか。丹羽氏はこれ以上踏み込んでは語らない。
氏は、あの15,6分の会談の根回しを誰がしたかわからない、首相が丹羽氏の知らないような情報を仕入れてあったかも謎で、会談に北京の大使館員をだれも立ち会わせないという事態であったという。――何という外交だろう。
メンツ丸つぶれにされた中国は、文字通り朝野をあげて怒った。
丹羽氏は、尖閣問題は私人が持つか国有化するか、そんな次元の問題ではないという。「あれだけのことをやっておいて、十年一日のごとく『領土問題は存在しない』で押し通すのが外交方針だという。これでは(日本は)国際社会からの理解は得られません」「私が北京から日本を見ていて、ああ、この国は度し難いな、と思うことがしばしばでした。」
そして「状況を決定的に悪化させた責任者には説明責任が厳然としてある」という――そのとおりだ。
だが、丹羽氏の「第1章『尖閣諸島問題』のあとさき」には、誰もが知っている以上の事実は少ない。ここは「この国は度し難い」理由を語って我々を納得させてもらいたいところである。
中国経済をどうみるか。
結論からいうと、丹羽氏は、習近平体制の10年間、中国経済の成長は続くと楽観的である。日本には10年も前から、中国経済はバブルであって早晩はじける、という見方がある。しかし丹羽氏は「はじけない」という。中国経済は、「世界の工場」から「世界の(消費)市場」へ、重点は輸出から内需へと変わり、第一次資本主義から第二の段階へと発展すると判断している。
こういう見方は丹羽氏だけではない。産業経済研究所の関志雄氏によると、中国では労賃と「元」為替レートの上昇を背景に付加価値の低い工業が退場し、より高度の産業が成長しており、貿易構造は「成熟NIEs型」から「先進工業国型」にさしかかっているというのだ。(http://www.rieti.go.jp/users/china-tr/jp/ssqs/130605-2ssqs.htm)
だがこれ以上の発展には、企業が公平・平等の原則のもとで活動する体制が必要である。現在の「中国の特徴のある体制」は、国営企業が経済の中核に位置し、各レベルの党組織が国営企業を指導するというものだ。丹羽氏は、国営企業改革、民営化の推進、金融改革、税制改革の四改革によって、体制改革は進むとみている。「この四項目が、中国経済は失敗するという一部日本人の悲観論、ないしは半ば期待への解答だ」という。
私は失敗するとは思わないが、丹羽氏ほど楽観的ではない。現体制には、特権層が公共セクターから巨大な利益を絞り出すレントシーキングが存在する。中国の腐敗が構造的だというのはこれだが、支配層の中には「中国の特徴ある体制」を維持しようとして改革に抵抗する根強い勢力があるからである。
丹羽氏もいう、もうひとつの課題は戸籍制度の改革である。中共は革命以来一貫して農村を犠牲にして国力を高めてきた。その最たる手段が農村戸籍である。人口の5分の1弱、2億5000万の農民工は、都市で無権利・困窮状態に置かれている。
ところが農村戸籍を廃し、全人口の半分近い農村に都市並みの医療保険・養老年金を普及するには莫大な資金と時間が必要だ。しかも都市既得権益層は戸籍制度の改革には抵抗する。中国のたいていの都市は水と住宅問題で飽和状態なのに、膨大な人口が殺到し、悪くすればスラムができ治安が乱れることを恐れるからだ。
とはいえ中国は、いずれこの困難な課題を克服しなければならない。さもないと「先進工業国型」経済への移行にブレーキがかかるのである。
日中関係の将来展望について。
英紙「フィナンシャル・タイムズ」(2013・6・11)は、オバマ・習会談に関連して、「習主席が退任するころには、中国はほぼ間違いなく米国を抜き世界最大の経済大国となる。米軍の圧倒的優越性もなくなりつつある」と指摘した(産経2013・6・17)。
習体制の終わるころ、中国が国力でアメリカを追い越すか、一人当りGDPが日本並みになるか、2023年前後というのは早すぎる気もする。だが中国で失政が連続しない限り、いずれ日米同盟では対応できなくなる。とくに軍事力において然り。好景不常。旭日の中国に日本はどう向き合えばいいか。
丹羽氏は、日米同盟しか頭にないような外交も困りものだとし、「さらにいえば、日米中の三角形を確固たる物にする、それも正三角形にしないといけません。中国へ延びる一片には韓国も含まれるのかもしれませんが」「日米同盟にこだわっているあいだに、いつの間にか米中のパイプの方が太くなっていた、なんてことにならなければいいのですが」という。
いや、すでに米中会談では、日本の頭越しに、両国は協調関係を模索しているではないか。
日中間の大きな課題は「嫌日」「嫌中」感情の克服である。丹羽氏は、中国人の反日感情をやわらげるには、時間がかかるとみているようだ。私も、祖父母の語る日本軍の残虐性、それを再現するテレビ、抗日の歴史教育によって、中国人の日中戦争の記憶は容易に去らないと思う。
丹羽氏は、尖閣問題が熱くなったさなか、日本の政治家が「独裁国家を許すな」などと刺激的発言をしたことを指弾する。この種の政治的発言はその後もあとを絶たないが、私も、日本人にかつて侵略行為があったという自覚があるなら、不必要な挑発をしてはならないと思う。
中共による中国支配の正統性は、対日戦争勝利の主力であったという建国神話によっている(主力は国民党軍だったというのが通説だが)。ところが生活格差や党官僚の腐敗や横暴によって、大衆のあいだに共産党嫌いが広がっている。丹羽氏は、いまその正統性にカビが生えかかって、中国の重大な危機となっているという。ならば、共産党後を展望する外交はどうあるべきかも語るべきではなかったか。
以上、丹羽氏の見解には同調できるところも多いが、あと一歩前に踏み出さないところがある。ここがもの足りない、じれったい。
初出:「リベラル21」より許可を得て転載http://lib21.blog96.fc2.com/
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〔opinion1354:130701〕