元号はいらない、「平成生れ」が「大正生れ」 の悲劇を繰り返さないように!

著者: 加藤哲郎 かとうてつろう : 一橋大学名誉教授
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2019.3.15かと  1 月の運転免許書き換えに続いて、今日締切の確定申告で、またまた憂鬱な体験。マイナンバーカードなど持ち合わせていないのですが、ナンバーのコピーを付けないと受理されないとのことです。ほとんど使ったことのないマイナンバー通知なるものをコピーしたら、これも運転免許と同じく西暦年号なし、元号のみの表記です。運転免許証は西暦併記に決まったそうですが、「国民の義務」なる納税書式は、来年から新元号で出さなくてはならないようです。「象徴天皇」と「新元号」の話題が、東京オリンピックと共に、3.11震災・原発事故8周年を押しのけた、メディア・ジャックです。「新元号」に「安」の字が入るかどうか、中国の漢籍ではなく日本の古典文学や記紀神話の世界が入るかどうかの喧噪、興ざめです。そもそも天皇制の時間支配にすぎない元号を残す必要があるのか、いや空間支配でもある「ナショナリズムの仕切り」を、なぜ公的に強制するのか、改めて、天皇個人の言行や人格ではなく、国家制度としての象徴天皇制の意味を、考えるべき時です。「法の支配」は、時の権力の定義・解釈と運用次第で、「人の支配」になりうるのですから。

かと 象徴天皇制自体が、占領支配をスムーズに進めるための米国の発案で、戦争・戦力放棄の第9条とひき換えに、日本国憲法に刺さった棘です。日本国憲法制定時には、初めて許された言論・出版・思想・表現の自由のもとで、メディアも活性化し百家争鳴でした。占領軍のプレス・コードで原爆や占領政策・連合国批判は検閲されましたが、天皇制や旧軍批判は相対的に自由でした。日本側には、君主主権の神権天皇制絶対護持論から共産党の天皇制廃止論の間に、それなりの言説空間があり、昭和天皇退位・譲位論もあれば、尾崎行雄のような「人心一新のための改元」論もありました。そして、占領軍GHQの絶対的権力のもとで認められたのが、「象徴」としての天皇制維持、天皇の「人間宣言」でした。今日、安倍晋三をはじめ新元号制定権を持つ改憲勢力は、「押しつけ憲法」をいいながら、9条改訂・集団的自衛権明記とともに、大日本帝国時代に戻る「元首」復活を目標としています。政治制度としての利用価値が高めるためです。「押しつけ」られたのは、憲法第9条ではなく、第1条の象徴天皇制でした。

かと 改憲勢力は、対米依存のもとでの「民族」「伝統文化」の最後の砦として、天皇制を死守どころか強化しようとしています。グローバリズムのもとで、外交的にも経済的にも「トランプのポチ」としてしか評価されていないのに、むしろそれを奇貨として、もともと中国起源なのに元号が残された「世界唯一の元号国」として、「ジャパン・ファースト」の文化的シンボルにしようとしています。国内では元号でしか公文書に表現できないイージス・アショア予算が、米国から購入する契約時には西暦で公文書になる、二枚舌です。「平成生れ」で安倍首相の「強いリーダーシップ」を支持している若い皆さんに、苦い歴史的教訓を一つ。「平成には戦争がなかった」などと、浮かれている時ではありません。大正生れの歌」を探索してわかった「大正生れ」世代の共通のアイデンティティとは、「アジア・太平洋戦争の最大の犠牲者」「同級生・戦友を失った世代」でした。なぜならば、次の年号「昭和」で戦争が始まった時、ちょうど10代後半から30代で徴兵制で最前線に送られる最大の犠牲者世代=コホートになったのが、「大正生れでした。核保有徴兵制さえタブーでなくなった21世紀の日本で、「新元号」キャンペーン・便乗ビジネスに乗り、「大正生れの歌」の悪夢を繰り返してはなりません。若い皆さん自身の問題です。

かと 日本国憲法全体は護るべきとして、不本意ながら象徴天皇制の存在は認める場合でも、時の権力による政治的利用には、敏感で厳格であるべきです。「そもそも政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。われらは、これに反する一切の憲法法令及び詔勅を排除する」「われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する」ーー前文を素直に読めば、日本国憲法の全体は、国民主権と基本的人権の普遍主義で貫かれています。だからそれに原理的に矛盾する、特殊な象徴天皇制も、第1条「天皇は、日本の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く」、第3条「天皇の事に関するすべての行為には、内閣の助言承認を必要とし、内閣が、その責任を負ふ」と厳しく規定されています。第4条「天皇は、この憲法の定める事に関する行為のみを行ひ、政に関する権能を有しない」と、「国事行為」の内容も第7条で限定されています。平成天皇の被災地慰問も、自らの意志による退位表明も、厳密には「法の支配」からの逸脱になり、時の内閣の政治利用と、それに便乗したビジネスを許すことになります。かつての「昭和」から「平成」への代替わり時以上に、「新元号」は、政治的にも経済的にも、すでに利用されています。

かと 新元号に「安」を入れたり、官房長官ではなくファシスト安倍首相自らが国民に発表する政治的利用にも要注意ですが、安倍官邸による権力一元化=独裁は、まだ完成したものではありません。いくら本人が「森羅万象全てを担当」「私が国家です」「立法府の長」とフェイクに自称しても、国家の権力分立制度が機能すれば、ブレーキがかかります。たとえば「立法府の長」発言に、野党議員が質問し、答弁させることができます。「アベノミクスによる戦後最大の景気拡大」を前提とする消費増税は、基礎となる統計数字が賃金でも家計消費でもGDPでも揺らいできて、庶民の実感を顧慮せざるを得なくなってきました。今日のニュースで言えば、旧優生保護法のもとでの強制不妊手術の犠牲者を救済する法案が、立法府=国会の与野党合意でまとめられる方向が確認されました。「反省とおわび」が国家でなく「われわれ」とぼかされ、被害者自身の声が届かず、損害賠償が少額の一時金にとどまるにしても、「朕が国家なり」への風穴です。ただし、私が解明しつつある、細菌戦・人体実験の元731部隊軍医・長友浪男が戦後厚生省に潜り込み、強制不妊手術実行の全国的運用責任者であった問題や、「らい予防法」や「北海道旧土人保護法」と同様の20世紀優生思想の産物であった問題等は、手つかずです。

かと 司法部=裁判所でも、森友学園問題での政府の資料隠蔽、福島原発事故での千葉県避難者の損害賠償訴訟では、ごく一部の地裁レベルではあっても、原告の主張を認める判決がでています。つまり、「森羅万象」の森には風が抜ける風穴はあるのです。ましてや象徴天皇や元号で仕切られた時間・空間は、その「仕切り」の外の外国=「横からの圧力」に弱いのが特徴です。中国・韓国・ロシア・ヨーロッパで「新元号」が歓迎されることはありえません。安倍晋三の宗主国アメリカでさえ、「代替わり」など無視して、FTA圧力をかけてくるでしょう。トランプの「アメリカン・ファースト」のもとで、従僕安倍晋三のノーベル平和賞トランプ推薦7つの日本企業大工場の米国移転の約束の秘密が、トランプ自身の口から暴かれてきたことは、「ジャパン・ファースト」の無力を示しています。旧皇室関係者をトップに据えた東京オリンピックは、「象徴」の招致汚職疑惑が浮上して、国際的イメージを下げました。「新元号」に浮かれている時ではありません。まずは、沖縄県民の民意を受けて、辺野古基地の非正義・不合理を米国に訴え撤回させることこそが、「主権者国民」とその政府のなすべきことです。「安」の字の入った国内公文書用「新元号」決定が、次回更新日4月1日の「エープリル・フール」であることを願います。

初出:加藤哲郎の「ネチズン・カレッジ』より許可を得て転載 http://netizen.html.xdomain.jp/home.html

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