――八ヶ岳山麓から(187)――
いまから27年前の1989年6月4日は、北京のまちに戦車が出動して、天安門を中心に東西長安街に集まっていた学生・市民に無差別射撃を加えた日である。
私は当時、埼玉県教委からの派遣教員として北京から汽車で2時間の天津の外語大学付属中学(日本の中学・高校)で日本事情と日本語を教えていた。
4日早朝、学生が飛び込んできてあの悲劇を伝えた。その晩北京の友人が2人疲れ果てた表情でやって来た。「ゆうべから北京では解放軍の銃撃が始まり、大勢の死傷者が出た。おれたちも病院で献血してから天津へ逃げて来たんだ」といった。しばらく天津に潜伏し、様子を見てから研究所に帰るかどうかを決めるといって去った。
私は大量殺害を実行した中国共産党中央の強硬派幹部はまもなく失脚すると思ったが、そうはならなかった。中国事情がわかっていなかったのである。
学生・市民のデモは、胡耀邦元中共総書記の死去とともに北京でおずおずと始まった。学生たちは「なぜ胡耀邦が死んだのか、真相を明らかにせよ」と叫んだ。胡耀邦が中共中央の会議で最高幹部らの腐敗追及をやって憤死したといううわさが広がっていたからだ。当時中国で清潔な政治家は胡耀邦と周恩来夫人鄧穎超の二人だけといわれた。とりわけ胡耀邦は1986・87年の学生の民主化運動に同情的だったがゆえに、総書記の座を追われたのである。
やがて首都高校(大学を指す)学生自治連合会が結成され指導部が明確になると、「打倒官倒爺(腐敗官僚打倒)」、学生・市民を殴ったものの処罰、国家指導者の財産公開、教育費の増額、民主・愛国運動の正しい報道、報道の自由などが付加えられた。同時に彼らは「共産党の正しい指導を!」とか「社会主義を擁護せよ!」と叫んだ。弾圧を恐れたからである。天安門広場には10万単位の学生・市民が集結するようになった。
1988年中共の理論家は新権威主義を唱えた。鄧小平の改革開放によって生まれた開発独裁の道を正当化する議論である。胡耀邦に代った総書記趙紫陽は「民主主義はもう10年待ってほしい」と発言した。私は10年は長すぎると思った。
趙紫陽政権下の経済はすさまじいインフレを起していた。北京市民は、物価騰貴は官僚が特権を使って公共物を私物化し転売しているからだと思っていた。市民は「清潔な政治」「腐敗追放」を叫ぶ学生のデモにお茶やカンパを提供し、学生はこれに感謝して「人民万歳」とこたえていた。
すでに4月下旬の鄧小平は、学生の運動を「動乱」と規定して弾圧をほのめかした。人民日報はその翌日「旗幟鮮明に動乱に反対しなければならない」という社説を掲げた。こののち学生はテルテル坊主のように、小さな瓶を寮の窓に吊るすようになった。小瓶(シアオピン)が鄧小平の小平(シアオピン)に通じるからである。
「五四運動」の記念日が近づくにつれ緊張がどんどん高まるのは天津にいてもよくわかった。「五四」は1919年5月4日パリ講和条約を機に起こった抗日・民主の学生運動である。
私は60年安保やその後の労働運動の経験から、この運動はどこで矛を収めるのか心配になって、勤務校の副校長に「落としどころはどこですか?」と聞いた。若い副校長は「中央はぜったいに妥協しません」と答えた。聡明な彼は悲惨な結果を予感していたようであった。
5月3日、中共中央を代表した袁木は学生の対話要求を拒否した。私は武力で権力をかちとったものの強さと野蛮を感じた。ところが五四記念日の当日総書記趙紫陽は、「学生のデモは民主と法制によって」「理性と秩序の雰囲気のなかで」解決されるべきだと語った。明らかに「動乱」という人民日報の規定に反する発言だった。のちになってわかったことだが、彼は中共中央の強硬派に攻撃され孤立しつつあった。
趙紫陽は学生に対し、ゴルバチョフの中国訪問中はデモを中止するよう要請したが、学生運動指導者はそれを受入れることができなかった。参加者のなかの強硬派が拒否したからである。
絶食請願団が作られハンストに入った。その請願というのが皇帝支配時代さながらで、人民大会堂の正門に向かってひざまづき、文書を差出す姿勢をとるというものであった。参加者は日を追って増え、天安門広場に集まった人はすでに20万とも25万ともいわれるようになった。
天津の学生はみな北京に行ってデモをやったが、やがて天津市内をデモ行進するようになった。大学生のデモのほか、中学生・高校生のデモが通りという通りをいっぱいにした日もあった。私の勤務した学校でも、校長が極力生徒の街頭行動を制止しようとしたけれども、最後には黙認せざるを得ない状態になった。彼らは「北京のお兄さんお姉さんを支援する」というスローガンを掲げた。
教師たちは、党の方から指令があるらしく生徒のデモに知らんぷりしていた。ほとんどの教師が「よくわかりませんね」と政治論議を避けた。私は何か起きたら助けるべきだという気持で、高校生のデモに付き添った。それ以後私に公安の尾行がつきまとうようになった。私は高校生に日本の場合として、憲法の条文を解説した。生徒の方から「先生の話は危険です。文言を黒板に書いてはいけません」と注意があった。
作家戴晴らが当局の出方に危機を感じて、学生に対し、当局には学生運動を愛国民主運動と認めさせるから天安門広場から撤退するようにと勧めたが、ダメだった。北京の学生指導部も天安門から引き上げるように提案したが、地方から来た学生たちに拒否された。
5月20日、北京に戒厳令が敷かれた。帰国してかえりみると、戒厳令以後のことは天津にいた私より日本の報道の方が全面的で正確だった。私は天津と北京の街頭のことしかわからず、全国情勢や中央の指導者間の確執などほとんど知らなかった。
日本の中国研究者は、この運動を1911年の辛亥革命以来の民主・人権運動の延長線上にあると見ていた。辛亥革命はたしかに東アジアで初めて共和政を実現したものだ。日本の侵略がこの脆弱な共和政を短期間のものにした。1945年の中国の「惨勝」後、全国人民協商会議の決議が辛亥革命以来の共和政を掲げたが、国民党政府は逆コースを歩み、かわった中華人民共和国も共和政体をとらず、自由と平等、民主と人権を実現する方向へはむかわなかった。
私は日本の研究者とは違って、1989年に学生や市民が本当に民主と人権を求めたのか、今でも疑問に思っている。デモが昂揚した時期、大学生たちに「君たちのいう民主とはなにか」と聞いたことがある。たいてい「それは君主に対する概念である。民主とは人民が主人公という意味だ」と答えた。
「人民が主人だ」というだけでは、「人民の利益を代表するものは中共である」となり、容易に一党支配を肯定する論理になる。私は「民主は思想の自由とか人の平等、代議制や司法の独立ではないのか」と反問した。人によって違いはあったが、だれもはっきりとその通りとはいわなかった。
私は外国人に内心を明らかにすることへの躊躇があるかもしれないと思いながらも、大多数の学生は中共の一党支配を当然の前提として、その要求は中共中央に「清潔公平な政治」を求める程度、市民の要求は「生活の安定」程度ではないかと思った。
だから中共中央が「民主と法制によって」「理性と秩序の雰囲気のなかで」柔らかい対応をしたならば、運動は時間の経過とともに終息したと思う。だが武力革命に成功した権力者にとっては、それは考慮の外のことであった。
当時中国社会のなかでは学生はごく少数で、特権階層に属した。逮捕されても一般市民とはやや異なる待遇を受けるとのことだった。運動をリードした知識人らはともかく、普通の学生が運動の中でどのくらい自由と平等、公平、民主と人権についての認識を高めただろうか。
学生運動指導者たちのふるまいには期待をうらぎるところがあった。香港など安全地帯に逃れられたものが記者会見をする際に、だれが中心に座るか上席をめぐってはげしく争ったというニュースがあった。
身近でも、税関に就職が決まった学生は私が帰国するとき、「先生が骨董品を持ちだすときは税関検査は問題なく通してあげます」といった。私はあきれて「君たちはそれがいけないといったんじゃなかったのか」と文句をいったことがあった。
運動に邁進した学生や研究者もやはりコネを使って当局の報復を逃れ、賄賂をもって就職しなければならなかった。そして多くが変節した。首尾よく出世したもののなかには「民主とか人権などは西洋的価値であって、中国には中国の誇るべき価値観がある」といったことを書いているものもいる。
文化大革命以後の40年を見ると、中国の経済は躍進した。軍事も増強した。だが辛亥革命や五四運動の観点からすれば、民主と人権の歴史はあきらかに後退した。天安門事件はその大きな節目だった。
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