前著「八幡製鉄所・職工たちの社会誌」で近代日本の鉄鋼産業創世期をリードした八幡製鐵所(現新日本製鐵)に働く職工たちの姿を生々しく描き出した著者による続編とも言える中身の濃い労作である。
「民主主義は工場の門前で立ちすくむ」と熊沢誠が喝破してから随分経つが、一歩踏み込めばそこだけで完結している特異な空間である運命共同体が工場である。鉄鋼業界の業界挨拶「ご安全に」のように、まさにそこだけでしか通用しない用語や規則、慣習で溢れている。工場の中で正門や食堂などの多くの人が通る所には、安全掲示板に連続無災害記録継続中を示す大きな緑十字が掲げられていることが多い。この緑十字を近くで見れば一ヶ月を日割りに等分し1日~31日まで区切った小枠で構成されていることが分かる。無災害の日は緑色のシールを貼ってゆく。一月がつつがなく過ぎれば31枚の緑シールからなる緑一色の大きな十字が完成するしくみとなっている。しかし永遠に緑の十字ばかり続かない。休業災害が発生した日は赤いシールが張られその日限りで連続無災害記録は途絶える。重大災害であれば労働基準監督署からの行政指導も行われる。被災した作業員の記録と記憶は終生消えることはない。諸手続きの面倒さや懲罰を慮っての表に出ない災害が連続無災害記録達成の陰に隠されている。なぜそのようなことになるのかは本書を読めばそのしくみが理解できよう。ちなみに安全のシンボルマークとしての緑十字が1919年(大正8年)に考案され、1927年(昭和2年)に国から認証されたこと、また連続無災害記録を達成した企業に対する表彰制度が実施されたのが1952年(昭和27年)であったことも著者によって教えられた。
本書は文化人類学、経営史、安全文化論を専攻する研究者が、災害が頻発する近代工場で「なぜ安全とならないのか」という現実的課題に対し、安全を妨げてしまうものの正体を比較文化論の立場から解明しようとしたものである。工場への安全概念の導入経緯を丹念に追い、実証分析の対象として八幡製鐵所での安全活動の歴史的な変遷を取り上げている。安全活動は工場で働いたことのある者にとって身近なものだが、様々な思惑を背負ったその成り立ちまで辿れる者は皆無であろう。これを一つ一つ検証してゆく著者の姿勢に共感を抱きつつ一気に読了してしまった。
図表や漫画までの豊富な資料を縦横に駆使して、当初は工学的観点から提唱された「安全」が、その時々の都合で変質しいかに労務管理にうまく利用されてきたのかが解き明かされてゆく。戦前、戦中は労組の弱体化や労働力確保による生産力向上の手段として利用されたがゆえに安全活動に国家や警察さえもが介入した。また戦後は労働組合運動への干渉目的に加え、米国から導入された「安全は経済である」「安全はペイする」「安全はもうかる」という概念の下で利潤追求の一環として利用されてきた。しかも米国版の導入に際して企業にとって都合の良い改訳作業も手抜かりなく行われた。企業はいつの時代もしたたかである。「労働者たちは国家的規定のもとに戦略としての「安全」理念を己が身体に刻み込むこと、いわば身体化を要求されたわけである。」(34頁)とは当を得た指摘と言えよう。
労務管理手段としての「安全」であるがゆえに工学的、技術的な見地に立って作業員を危険作業から解放するには至らない。ここで著者は人間倫理が存在しない「安全」を構築する官僚の「法学・対・工学」の角逐を見て取る。現在から見れば工学的、技術的な側面からの「安全」への取組みはそれからずっと先にこれもまた一つの労務管理手法であるカイゼン活動やTPM(トータル・プラダクト・メンテナンス)活動といったトヨタ方式に一部継承されていったということにでもなろうか。しかしそこにも人間倫理の入りこむ余地はない。
本書では現場の職工や作業員たちは会社から強制された安全活動が実作業行うに合理的でない点があり積極的に受け入れなかったと分析しているが、高度成長期以降はそれだけでもなかったろう。ここで筆者は著者も取り上げている八幡製鐵所が舞台となった映画「この天の虹」で、巨大集合住宅の社宅に住む八幡製鐵所の作業長(笠智衆)の息子(小坂一也)が入社試験の日に病気で八幡製鐵を受験できずひねくれてしまう、というエピソードを思い出す。前著でも言及されていたことだがスタッフ(学卒)ではないライン(作業員)の作業員であっても八幡製鐵所の社員は十分に優秀な者たちが選ばれて入社していた。優秀な作業員たちはその優秀さゆえに押し付けられた安全活動でさえもきっと黙々と生真面目に取組み立派な成果を挙げたことと思う。これは福利厚生面の配慮により作業員が企業と同化し、させられて行った過程と一致する。
また製鉄所では、溶解(高温)、築炉(高所)、圧延(回転体)といった作業を行うので、火傷、落下、巻き込まれ、感電といった重大災害の発生源が現場作業と一体となっている。危険作業や非定常作業が伴う環境下での労働災害と、著者が挙げる飛行機や回転ドアなどでの災害とは種類、頻度が異なる。従ってその場での「安全」も異なることを明確に区別して論考を進めた方がよかったのではなかろうかという気もする。
安全活動は技能を活用するのではなく画一的なプログラムの強制により個々の創意工夫を妨げる側面があったという指摘はその通りである。その意味では職人、職工から作業員へと呼び方が変わり時代が変遷するにつれ企業にとって安全活動はやりやすい環境となった。現在、熟練した技能が伝承されず途絶えてしまうことが懸念されているが、その反面配置転換と人員削減を容易かつ円滑に行えるので効率化と称する多能工化を求める声もある。この事例などは大いなる手前勝手というべきだろう。
もちろんこれら一連の動きを著者は気付いている。経営学や社会学の視点で論じられることが多い近代工場労働に対して、更に著者による辛口の皮むき作業を期待したい。
実際に工場で安全を担当している部署の者が読めば、「俺たちが毎日やっていることは労務管理などではない。生産の根幹に関わる重要なことなのだ」と反論されそうだが、「それじゃあ、一体安全の何をどこまで知っているのか」と問われればおそらく彼らは答えに窮するに違いない。およそ安全に関する全てのことが安全担当者の業務範疇であるから、読後にどのような感想を持つかは別としても安全史をおさえておくべきと思う。働いている人、特に生産に一度でも関わったことのある人には前著も含めて是非とも読んでもらいたい。いままで当然のものとして見慣れた「安全第一」の看板の裏側にあるものが透けて見えてくるはずだ。
「安全第一」の社会史 -比較文化論的アプローチ- 金子毅著、社会評論社刊、税込み2,835円
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
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