暴論珍説メモ(136)
安倍首相はさる4月9日の参院予算委員会で、野党議員の質問に答えて、国立大学の卒業式や入学式での国旗掲揚、国歌斉唱について次のように答えたという。
「学習指導要領がある中学、高校ではしっかりと実施されている。(国立大学が)税金で賄われているということに鑑みれば、教育基本法にのっとり、正しく実施されるべきではないか」(『毎日新聞』4月11日)
これを受けて下村文科相は翌10日、「国会における議論の内容や国旗国歌の意義を踏まえ今後の入学式などにおける国旗国歌の取り扱いを検討してもらう。要請は圧力にならない。国立大は決まりがないので強要することではない」(同)と述べた。
学校における国旗・国歌の問題には長い経緯があるが、安倍政権はその上にまた新しい問題をつけたして、自分たちの思想を大きな網のように国民にかぶせようとしている。それもこれまでにない、それこそ「超法規的」な発想でやろうというのである。
その核こそが「(国立大学が)税金で賄われているということに鑑みれば、教育基本法にのっとり、正しく実施されるべきではないか」という安倍発言だ。この男は税金をなんと心得、政府をなんと心得ているのだろうか。
税金は政府の金ではない。国民の金である。政府はそれを集め、その使途を国民の代表(国会)に提案することが出来るだけである。そして現行の議院内閣制は政府をリードする人間たちを固定せず、民意にしたがって定期的に交代させることを大前提にしている。この制度があればこそ、いっぺん政権を投げ出した人間でも国会の風向き次第では、ふたたび内閣首班の座に座ることも可能なのである。
つまり何政権のもとで税金の配分を受けようと、その使い方には法律で決められた以上の制限や条件を課されることはない。何政権のもとで税金を使わせてもらうのだから、その政権の気に入るようにしなければならないなどということはあってはならないのである。
ところがこの場合の安倍発言は代議政治のこの基本原則を無視し、国の費用をつかう組織や人間をあたかも総理大臣という君主からいただく禄を食む家来のように考えている。これは大変な暴言である。本来なら、それこそ総理大臣としての資質にかかわる問題として、国会ではげしく追及されるべきなのに、「税金」という言葉が出ると、野党も国民も塩をかけられた青菜のように急に首をうなだれてしまうのは一体なぜなのか。
そのからくりはきわめて単純である。国に勢いがあって、経済が成長し、税金がたっぷり入ってくる時代には、多少なりともその使途を左右できる政治家はそれを使って国民(選挙民)にサービスすることで競争した。国民はサービスを受けることを当然と考え、税金の前に平身低頭するなどとは思いもしなかった。
ところが国に勢いがなくなって、税金が思うように集まらなくなると、税金を配分される側が、減額されたり、打ち切られたりするのを恐れて、本来頭を下げる必要のない配分係に平身低頭することになってしまった。それで「税金で賄われているということに鑑みれば」などという文字通り上から目線のえらそうな言いぐさが飛び出してくるのである。
しかも安倍発言にはまだ先がある。「鑑みれば」に続けて「教育基本法にのっとり、正しく実施されるべきではないか」というのである。この言葉は、国旗掲揚・国歌斉唱を大学が行わないのは「教育基本法にのっとって正しく実施されていない」という意味であろう。それ以外には意味のとりようがない。
ところが教育基本法のどこにも「国旗を掲揚し、国家を斉唱せよ」などとは書いてない。2006年の第1次安倍政権の時、強引に改正した教育基本法の目玉は「愛国心」を第二条の「教育の目標」に取り込んだことだが、それは「伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛するとともに、他国を尊重し、国際社会の発展に寄与する態度を養うこと」とあるだけである。国旗・国家の「こ」の字もない。愛国心以外の目標にも、「真理を求める態度」、「個人の価値を尊重」、「自主および自立の精神を養う」、「自然を大切にし、環境の保全に寄与する態度を養う」などが並ぶだけで、ここにも「こ」の字もない。
しかも大学については、第七条第2項で、とくに「自主性、自律性その他の大学における教育及び研究の特性が尊重されなければならない」とある。どこから見ても、大学が国旗掲揚や国歌斉唱をしないことが「教育基本法にのっとって正しくない」とは言えない。
ところがこれも国会では不問に付されたままだ。ここでもまた野党、マスメディアの不勉強が露呈された。総理大臣ともあろうものがいい加減な御託を並べているのに有効なカウンターパンチを繰り出せないとは何たる惨状か!
しかも引用した『毎日新聞』の記事によると、国立86大学のうち74もの大学が今春の卒業式で国旗を掲揚し、14の大学が国家を斉唱したという。そもそも国旗とか国家とはなんのためにあるのか。国民に一体感、同胞感を持たせ、団結の力を強調するためであろう。それ自体が悪いとは思わない。しかし、大学というところは、教育基本法第七条2項に言う自主性、自律性が何よりも尊重されなければならない場所である。既存のルールにとらわれない精神から新しい研究成果が生まれるのである。そしてそれこそが勢いを失った日本社会が活力を取り戻すために一番必要なものだ。
今、大学手前の中・高校に対しては、入学式、卒業式では国旗は旗棹につけて立てるのではなく、講堂正面に張り出すこと、国歌は起立して口を開けて歌うことといったやかましい「指導」が行われ、さらに教育委員会が各学校に人を派遣してそれが守られているかどうかを監視するといった馬鹿馬鹿しい光景が展開されている。自由な精神から新しいものが生まれるのを一生懸命押さえつけているとしか思えない。それを大学にまで広げようというのだから、呆れかえった話である。
野党は数が少ないからといってひるまずに、驕り高ぶった政権の勇み足をきちんと指摘し、粘り強く国民に訴えかけてもらいたい。このままではこの国は本当に危ない。
初出:「リベラル21」より許可を得て転載http://lib21.blog96.fc2.com/
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