暴論珍説メモ(135)
(1)
去る7月末に「重大な規律違反」で審査にかけられることが公表されて以来、四か月あまりも音沙汰がなかった中国共産党の元中央政治局常務委員・周永康について、ようやく12月6日、新しい発表があった。
その内容は12月5日に中国共産党が中央政治局会議を開き、中央規律委員会が提出した「周永康の重大な規律違反案件に関する審査報告」を可決し、「中国共産党規律処分条例」に基づいて、まず周本人を共産党から除名すること、そして犯罪が疑われる問題とその材料を司法機関に送り、法に基づいて処理することを決めた、というのである。
発表はまた周永康についての調査は昨年12月1日に開かれた党中央政治局の常務委員会が党中央紀律検査委員会の周永康についての報告を聞いて、それに対する確認調査を行うことを決め、7月29日の中央政治局会議でその結果を聞いた上で、立件審査を決定したというこれまでの経過をも明らかにした。
2年前まで党の中央政治局常務委員というトップ9人の最高指導部のメンバーであった周永康を反腐敗のターゲットとすることを党中央紀律審査委員会という泣く子も黙る腐敗追及の総本山(体制は違うが、東京地検特捜部のような存在と考えれば分かりやすい)が決めたのがいつかは明らかでないが、とにかく今から1年前の12月には中央政治局常務委員会というトップ7人の会議で、その紀律審査委の報告に基づいて調査開始が決定され、さらに7月に今度はトップ25人の政治局会議で立件審査の開始が決定され、そして今月5日に再びトップ25人の政治局会議で、除名処分と司法機関への移送が決定された。
この経過からなにが読み取れるか。日本のような政治体制でも権力中枢においては、たとえば閣議では総理大臣の意向に真っ向から反対するような意見は容易には出ないものだが、中国共産党の最上層部のような序列が決まっている組織ではその傾向はもっと強いはずである。それがこの問題に関してはずいぶんと丁寧な手続きを踏んでいるというのが第一印象である。
それにもう1つつけ加えれば、今月5日の政治局会議の結果が発表されたのが、深夜12時を過ぎていたために、新華社の発表は「6日凌晨(未明)」となっている。ということはトップ25人の政治局会議ではかなり議論が紛糾して、決着が深夜になったという事態も想像される。いずれにしても、この件はシャンシャンと党内手続きが進んだわけではないことを示しているように思われる。
それでは何が問題か。7月の発表のあとの「暴論珍説メモ」では、腐敗でやり玉に挙げられる人物はその多くが「違規違法」が罪状として挙げられるのに、周永康についてはなぜか「違法」がなく、「違規」だけが挙げられていることを指摘した。その理由として想像されることとして、周永康の蓄財の規模が巷で取沙汰されているように900億元(日本円ではなんと1兆7000億円)にもなるとすれば、それは「法の目を盗んで」の犯罪行為ではとても積み上げられる数字ではなく、むしろ石油業界のドン、司法・警察組織のドンとして、堂々と合法的に積み上げられたものであって、中国の各分野に張り巡らされた利権構造の問題ではあっても、周個人の「違法行為」といった単純なものではないからではないか、と書いた。
そこでどんな罪状容疑で司法へ移送されたかが注目されるが、今回の発表では次のようなことが挙げられている。「党の政治紀律、組織紀律、秘密保持紀律の重大な違反」、「職務上の利便を利用して多くの人間に不法な利益を得させ、直接あるいは家族を通して巨額の賄賂を受け取った」、「職権を乱用して親族、愛人、友人の経営活動を援助して巨額の利益を得させ、国有資産に重大な損失を与えた」、「党と国家の機密の漏えい」、「廉潔という自律の規定に厳重に違反して、本人および親族が大量の財物を受け取った」、「多数の女性と通姦して、権色、銭色取引をおこなった」。
この中の「党の政治紀律、組織紀律違反」「廉潔という自律規定違反」「権色、銭色取引」といった条項は、常識的には法律違反の範疇に属さないはずである。またその他の「違法行為」にしても、それによって周の蓄財のどの程度までが説明がつくのか、これからの裁判の見どころである。
(2)
ところで、周永康「審査」が公表された7月29日にはじつはもう1つ発表があった。それは中国共産党の18期4中全会という会合が10月に開かれ、そこでは「法による統治」の全面的推進が議題となるという発表である。
中國の裁判はともすれば共産党の意向で動かされやすいとはこれまでもよく指摘されてきた。とくに言論表現の自由を求めたり、政治の民主化を要求したりする活動には、憲法で「言論表現の自由」が認められているにも関わらず、「政権転覆陰謀罪」といったおどろおどろしい罪名が着せられて、長期の懲役刑が言い渡されることが珍しくない。ノーベル平和賞の受賞者、劉暁波もまだ囚われの身である。
そこへ中国も法治の全面的推進に取り組むと見える発表が行われたわけである。「法治」の反対は「人治」、つまり党や政府の幹部の情実で正邪が決められ、法律が曲げられることだから、法治の全面的推進となれば、共産党が裁判に口出しすることはもうなくなるのだ、と誰しも思った。
そしてその4中全会が10月21日から23日まで開かれ、コミュニケが発表された。ところがそれがどうもヘンだったのである。
「党の指導を堅持することは社会主義法治の根本的要求であり、党と国家の根本、命脈の存在するところであり、・・・法による統治を全面的に推進するのに不可欠のものである。党の指導と社会主義法治は一致しており、社会主義法治は党の指導を堅持しなければならず、党の指導は社会主義法治に依拠しなければならない。・・・」
というわけで、党と法は切り離されるどころか、ますますしっかりと結びついてしまった。こんなはずではなかったのではないか。一体、党と法はどっちが上なのか、という疑問を誰しも抱く発表だった。
そんな声を敏感に察知したか、10月31日の『人民日報』の「人民論壇」に載った「何故、きびしく党を治めるか」(叶小文)という文章は、こんな風に書いている。
「ある人は故意に党と法を対立させて、『党と法は両立できない』と宣伝し、『党が上なのか、法が上なのか』と問い詰めてくる。これは下心のある、人を迷わせる銃であり、偽のテーマである。その目的は法治の問題から突破口を開き、民衆を惑わし、人心をかく乱し、党の指導と社会主義制度を否定し、中国を誤った道にひきこもうとするものである」
当然の疑問に対するこの居丈高な論断はまるで文化大革命の再来のごとくである。なにかおかしい。法治を4中全会で推進すると決めてからの3か月に一体、党内で何がおきたのだろうか。
ところが、今回の周永康についての発表を見て、「法による統治」の意味がわれわれの(というより、「中国人一般の」と言ってもいい)理解とは全く異なることが判明した。(1)の発表を見れば明らかなように、周の調査や審査を決めるのも、司法に送るのもすべて党の会議の決定に拠っている。司法の判断の前に党の判断があるのである。
今度の発表の約1か月前の11月1日、最高人民法院(日本の最高裁にあたる)の長江必副院長が記者会見で「周の案件はまだ司法手続きに入っていない」と述べたが、司法は党の決定をよって動くか動かないかが決まるのである。今回も党の決定を受けて、最高人民検察院(最高検察庁にあたる)は周永康の逮捕を決めた。今後も党の決定でどこの裁判所で審理するかがが決まり、おそらく判決も党の決定で決まるのであろう。
つまり何のことはない、「法による統治」、中国語の「依法治国」は、正確に言えば「用法治国」なのである。「法の下の平等」とか「法の支配」とか、「法による統治」という言葉から連想される概念とは反対だったのである。
したがって司法の役割は、党の決定と法律の条文をどのように整合させて判決を書くかということになる。周の裁判の見どころもその範疇のこととなる。
もう1つつけ加えれば、11月10日、中央規律検査委監察部のウエブサイトに『党の規約と紀律は国の法律よりきびしい』という一文が登場した。文字通り「党の規約と紀律に違反したものは法律よりきびしく処罰するべきだ」と論じたもので、勘ぐれば周の法律違反がどの程度のものであろうとも、より重く処分するための準備工作のようにも見える。法治の全面的推進というのは、法律的にはどうであろうとも、重く罰する必要があれば重く罰するということのようである。
汚職幹部を重く罰するのも党、庶民のささやかな要求を政権転覆陰謀罪とするのも党、ということであるとすれば、「法による統治」も恐ろしい。
初出:「リベラル21」より許可を得て転載http://lib21.blog96.fc2.com/
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
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