クロンシュタットの水兵の話を続ける。久野収と鶴見俊輔の対話集『思想の折り返し点で』で久野が埴谷雄高から貰った手紙を紹介している。久野の発言は次の通りである。
ベルリンの壁が落ちたときに、埴谷氏がぼくにくれた葉書に、「ああいう劇的な仕方でクロンシュタットが、一部であれ、もう一度、自分の目の黒いあいだに出てくるとは思わなかった」と書いてあったが、ぼくも同じ思いでしたね。(107頁)
そして久野は、日本では「社会主義の中では個人のイニシアーを重んじるアナーキズムだけが自分の言葉を発見し、人間と生活に幾分根をおろしたのではないか。大杉栄あるいは宮沢賢治も入れていいと思います」(116頁)とも言っている。
眼線を低く保ち、民衆の生活に根ざした話を民衆の言葉でもって語る――それがいかに難しいことであれ、どうしてもそれが必要だということを絶えず自覚すること。民衆の知ることのできない場所から「降ってきた」言葉と指令を拒否すること。それが大杉を含む心やさしきアナーキスト達が実践したことではないのか。
クロンシュタットの水兵もまたそうだった気がする。アナーキストの釈放を要求して赤軍に立ち向かった彼等も、「前衛党」の中やその周辺ではなく、民衆のまぢかにいたから、彼らの眼線は、民衆の眼線と同様に、低くならざるを得ず、その言葉は民衆のそれになっていったのではないか。そう思う。
クロンシュタットの水兵の闘いは、「全ての権力をソヴェトへ」というスローガンのもとで、レーニン、トロッキーらによるボルシェビッキの独裁に反対して立ち上がった闘いであり、そしてある意味では、ローザ・ルクセンブルクのレーニン批判(「自由とはつねに別の風に考える自由のことだけを言う」とする批判)と同じ地点にたった反乱であった。ベルリンの壁の上で自由にハンマーをふるった青年達と、フィンランド湾の凍てつく海を前に、死を覚悟して赤軍と砲撃戦を交わしたクロンシュタットの水兵達を同一線上におくことは間違いではないかと思うのだが、ともかく、共産党独裁に立ち向かったという点ではそこに類似性を見ることは可能なのかも知れない。
興味を惹かれたのは、あの埴谷がベルリンの壁が崩れるとき(1989年11月)に、クロンシュタットのことを思い出したということだ。埴谷の心の奥深いところにも、70年近くも前に革命の良心をもって立ち上がったクロンシュタットの水兵の声が残っていたのであろうか。レーニンに始まる20世紀の革命の歴史は、ある意味では、自分の言葉と革命の良心を持ったこうした人々を圧殺していていった歴史であったといえる。ローザ・ルクセンブルクはクロンシュタットの水兵の反乱を知ることなく死んだが、もし生きていたなら、それをどう受け止めていただろうか。
毎年3月が来ると、クロンシュタットの水兵の反乱(1921年3月)を思い出す。
久野収・鶴見俊輔『思想の折り返し点で』(朝日新聞社、1998年)
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
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