周回遅れの読書報告(その23) 西田信春と岡崎次郎

 夢野久作(杉山泰道)の秘書に紫村一重という人物がいた。非合法時代の日本共産党九州地方委員会の活動家だった男である。その紫村が同委員会の委員長だった西田信春のことを書いているものを、鶴見俊輔が『夢野久作 迷宮の住人』で紹介している。
 西田は1933年2月に検挙され、すぐ拷問によって殺された。しかし、殺された人物が西田であることが特定できず(という口実だが、実際は権力によってその死が隠蔽され)、死後37年経った1970年になってやっとそのことがわかったという(鶴見、同上、140-143頁)。西田のことは夢野久作とは直接は何の関係も無い。西田と関係のあった紫村をそれと知った上で夢野が自分の秘書としたということを鶴見は紹介しているだけのことである。
 これを読んでいて、「西田信春」という名前に引っかかった。どこかで聞いたことのある名前なのだ。暫く考えて、石堂清倫か岡崎次郎の回顧録で出会った名前ではないかと思った。「ダメもと」で調べてみたら、何と出てきた。西田の名前はやはり岡崎の回顧録『マルクスに凭れて60年』にあった。
 岡崎はこの回顧録の副題を《自嘲生涯記》としている。自らの人生を《自嘲》的なるものと規定し、他者からの謗りや嘲笑、そして他者との関係における様々な軋轢を意に介することなく、いわば孤高の人生を歩み続けた彼の生涯は日本人のそれとしては、普通のものではなかった。最晩年、岡崎は夫人とともに所在をくらました。夫人ともども四国に渡るフェリーの船上から瀬戸内海に身を投じたのではないかとされたが、死体が確認されたというはないは聞かない。今に至るも「行方不明」のままになっているのではないか。
 回顧録では、『資本論』の翻訳を巡る、向坂逸郎との関係などがあからさまに語られている(しかし死出の旅路を共にしたはずの夫人とのことは、どういうわけかごく簡単に触れられているだけである)。そして西田に対しては、「不屈の闘士」という岡崎にしては珍しい賛辞を送り、「惚れっ放しで飽きなかった数少ない友人の一人である」とする。しかし岡崎は、西田に最大限の賛辞を送りながら、その「西田信春を偲ぶ会」にも欠席し、追悼文集(『西田信春書簡・追憶』土筆社、1970年:前述した紫村も一文を寄せている)への執筆の依頼をも拒否した。これは「不屈の闘士」西田を前にしてついに「暢気な虚無主義者」として、屈折した生活を送ることになった岡崎が、長い時の経過後においてもなお、軽々に西田の名を口にすることを潔しとしなかったからだったように思えてならない。
 若き日において「暢気な虚無主義者」として生きざるを得なかったことに対する思いが、その後の岡崎の生き方を規定――《自嘲》的なるものとして規定――したようにさえ思われる。そして驚くべきなのは、この自己規定を生涯にわたって維持したということだ。日本人の多くが過去をいとも簡単に「水に流して」しまうのとは正反対の生き方であった。
岡崎が姿を消して(1984年)、今年でもう30年になる。

鶴見俊輔『夢野久作 迷宮の住人』(双葉文庫、2004)
岡崎次郎『マルクスに凭れて60年』(青土社、1983年)

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