2010年から2011年の3月5日まで「周回遅れの読書報告」を書いていた。昨年の9月に二つだけその「続編」を書いた。その間の長い中断の理由については、9月14日の(番外その4)を見て頂ければいい。しかし「続編」は、たった二回しか続かなかった。まだこういう文章をかける状態になかったとも言えるが、所詮は私の怠惰のせいである。それを反省し、9月27日付けの(2-1)と番号をふった「野垂れ死にする自由と経済ジェノサイド」を(番外その5)と見做して、もう一度「周回遅れの読書報告」を再開する事にしたい。
資料を整理していたら、2003年7月6日という10年以上も前の日付のある古いメモが出てきた。読書報告というにはすこしずれているが、メモには次のようなことが書いてある。
──当地に来る前に、大学にいる知人から、佐藤良一(編)『市場経済の神話とその変革』を贈呈された。そのときは一ページも読まずに、こちらに来てから初めて開いて、今週ようやく読み終えた。日本の経済学界では異端とされる人達の論文集であり、読みやすい本ではないし、必ずしもうなずける主張ばかりではない。
ここに収められた佐野誠氏の論文「開発パラダイムの比較分析」も、開発経済学の専門知識を必要とする論文であり、ここではその内容に立ち入るつもりはない。ただ、論文の中に南アメリカの各政権の政策比較のなかで、「ポピュリズムは、すぐれて国家主義的な制度と不可分なのである」と語っていることが記憶に残った。大衆迎合的(扇動的)政治家は、多くの場合、一旦権力を握ると、国家主義的政治の道をたどりがちであることを佐野氏は南アメリカの実例をひいて論じている。国家主義はファッシズムと置き換えていいだろう。そうだとすればしかし、これは南アメリカだけの例ではない。ヒットラーもムッソリーニも一方でポピュリストであり、同時にファッシストであった。自分だけが大衆の気持ちを代弁しているというポピュリスト特有の思い込みが、異論に対する不寛容と、反対者の暴力的弾圧につながるのだ。ポピュリズムにはそういう危険性がある。
そう思って読んでいたら、これは現代の南アメリカや戦間期のヨーロッパだけのことではないのではないかと思い始めた。まだ現役バリバリのさなかに「この国には猪瀬直樹がいる」という大それたキャッチコピーで「著作集」が売り出された作家・猪瀬直樹氏のことを思い出したのである。
この猪瀬氏は「急進改革派」という触れ込みで道路関係四公団民営化推進委員会に参加した。ところが、委員会の審議の最中、「永久有料」という言葉が国民受けしないと感じるや、それが民営化の基本中の基本となる事柄であったにもかかわらず、「今後、永久有料という言葉は使わない」として、今井[敬]委員長ともともども、永久有料制の議論を回避してしまった。これほどの大衆迎合はない。まさにポピュリストというふさわしい。そしてその半面で、委員会の審議では、猪瀬委員に対する反論を展開した田中委員が「何か威嚇というか、恫喝というか、そうとしか思えないような言い方で議論が展開され」たと嘆息したほど(8月30日、第15回委員会)、威圧的発言を繰り返した。ポピュリストが一面でファッシストの傾向を色濃く帯びる典型例をここに見ることが出来る。
南アメリカの事例が開発経済学に多くの研究材料を提供していることが佐野氏の論文からは窺える。それと同じように、私たちは猪瀬氏の言動から多くのことを学ぶことが出来るのではないか。
だがもう一つ忘れてならないことは、ヒットラーとムッソリーニの例にあっては、そのプロパガンダは、それだけが彼らの存在根拠であることからも、きわめて巧妙にして狡猾であり、容易なことでは粉砕できなかったということだ。(彼らが粉砕されたのは結局は、言論戦ではなく、物理的軍事力であったのはまことに印象深い)。
メモはここで終わっている。2003年7月と言えば、まだ道路公団の民営化が小泉政権の看板政策の一つだった頃である。それから10年が過ぎた。この間、猪瀬氏は東京都副知事から知事になり、絶大な権力を握り、そして昨年12月に金銭スキャンダルでその地位を失った。猪瀬氏をほうむったのも、言論の力ではなく、醜聞であった。一方、この論文を執筆した佐野氏も、まだ定年前の若さで、昨年11月に他界された。世の移ろいの速さに驚くばかりである。読書報告には少しそぐわないが、猪瀬氏の失脚と佐野氏の逝去に思いを馳せたい。またそういう意味もあって、今回の報告も「番外」としたい。
佐藤良一(編)『市場経済の神話とその変革』(法政大学出版局、2003年)
記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
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