中山智香子の『経済ジェノサイド』は、フリードマン流の新自由主義がいかに経済弱者を皆殺しにしていったかを、読みやすく書いた好著である。ただ、次の文章は気になった(282頁)。
自由を謳う統治が社会の一部分を見棄て、見殺しにしながらなお「(野垂れ死にする)自由」を語るとき、経済ジェノサイドが全体主義の派生物とは限らないことは確かだ。
中山の叙述は実に切れ味のいい明快なものであるが、この文章だけはよく意味がわからない。新自由主義は恐怖政治の下で、「野垂れ死にする自由」を決して許すことはないのではないか。現実にはむしろ「野垂れ死にする自由」を選ぼうとする自由人を根こそぎにしようとするのではないか。
隆慶一郎が、織田信長がなぜ比叡山でジェノサイド(皆殺し)を行ったかを推理する小論を書いたことがある(隆[1999]所収)。隆はこのジェノサイドの背景には、あらゆる権力を認めない一向一揆に対する信長の底知れぬ恐怖心があったとする。隆は以下のように書いている。
彼等[『渡り』(土地を持たない非農業民)、『道々の者』『道々の輩』といった、漂泊をいき方とする人々]に共通した思想は『上ナシ』の理念である。自分たちの上に何人の存在も認めない、支配者を認めない、自分は自分の才覚一つで生きてゆく、そのためには餓死することになろうと自分の勝手である、金輪際上からの支配によっては生きぬ。それが『上ナシ』の理念である。いや、理念というより、心情といった方が正しいかもしれない。つまりは根っからの自由人である。(113頁)
一向一揆とは、…『寺内』を守るために戦いだった。つまり『不入の地』(権力の不入の土地)の自由を守るための戦いだった。戦士は『渡り』も農民も含んでいた。
(116頁)
こうした「根っからの自由人」によって起こされた一向一揆によって自分の全国支配が手ひどい妨害を受けているという思いが、仏教全体に対する異常な憎しみとなっていった。「根っからの自由人」が跋扈していたのでは全国支配などおぼつかない。その恐怖心がジェノサイドを引き起こしたという隆の主張には説得力がある。『上ナシ』の心情とは、アナキズムの心情である。日本の歴史の一時期にアナキズムの心情が大きな力を持っていたことをこのことを示唆している。
仮に経済ジェノサイドが、経済的弱者に向かって、お前たちには「野垂れ死にする自由」があると語ったとして、経済的弱者がそれを奇貨として、「野垂れ死に」となる可能性のある生き方、すなわち強者による支配を拒否する生き方を選択できるとしたら、それは新しい(中山の言うアントロポス的な)社会へ向かう道を見だすことになるのではないか。そして経済的弱者がそういう道を歩き出し、強者による支配を拒否しだした瞬間に経済ジェノサイドは破綻する。なぜなら経済ジェノサイドは、「自由」の名のもとに、強者が専横に支配する自由を弱者に強制するものに他ならないのであり、本来の意味での自由人の存在を許さないものだからだ。
引用した文章の意味を中山に訊いてみたい気がする。
隆 慶一郎[1999]『時代小説の愉しみ』(講談社)
中山智香子[2013]『経済ジェノサイド』(平凡社新書)
記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
〔opinion4620:130927〕