善き生について考えよう。こんな始まりから。
怨嗟(えんさ)の声があふれている……。うらみなげく声。ああ、人生はなんてうんざりするものなんだ……友人なんて当てになるだろうか?……なにもかも、くだらないことじゃないか。はたまた。世の中は本当にひどいもの……いや、人間がもともと悪くできているんだ……なんて孤独なんだろう、なんて不幸なんだろう、わたしは!
こんな風に、人は思うことがある。ついつい、ルサンチマン(怨みがましさ)へと、他人や自分を呪い、憎しみをもつ方へと、思考が走る。妙な考えが頭をよぎる。
それは、鬱病の人だとか、とくべつに苦痛にあふれた心をもたない人にも、起こりうることだ。そんなとき、僕らは「死にたい」とさえ、考える。けれども、こういうことは、僕らの、「自分の中」だけで済むわけではない。
家族が心配するだろう、友達がやきもきするだろう、気にかけてくれる人もいる。それだけではない、彼らがちょっとばかし、(あるいはたくさん)困るばかりではない。それどころか、積極的に、そういうルサンチマンを、世界への憎しみを、作品にする人々さえ、いる。そういう作品が、小説であれ、論説であれ、歌であれ、あちこちでうごめいている。それは、周りへ伝播する。冬に風邪のウイルスがまき散らされるように。じわじわと、目に見えない形で、人をむしばんでゆく。
けれども、僕らは、生を肯定することもできる。こんなような、生を否定する運動に抗って。「人生は、うんざりすることばかりじゃない。」「友人に愚痴をこぼしたっていい。」「わたしだけは(あなたに対して)誠実でいよう。」もっと、もっと。「世の中には、見捨てられることもあれば、拾われることもある。」「人間は、悪くもなるが、良い方向へも歩んでゆける。」そう、こんな風に教えてくれるものがある。
それは、なんなのか? 人生が僕らの教師なのだろうか? 生きていればいいことがあるのだろうか? 僕らに生の肯定を教えてくれるのは、人だ、と思う。恩師かもしれない、 友達かもしれない、親代わりになってくれる誰かかもしれない。または、一晩、お話しただけの、にぎやかな同じ宿に泊まったお客さんから、得るものがあるかもしれない!
それは、ギリシャ語で言うなら、「フィリア」と呼べるだろう。(ピリアの方が発音は近いかもしれない。)フィリアは、愛情・友情・人とのつながりを全部、ひっくるめて表すことのできる言葉である。日本語で言えば、「(ひとの)縁」が近いかもしれない。人と人との間に、通い合うもの。
僕らは、フィリアによって結ばれる。弱いフィリアもあり、強いフィリアもある。どちらも、よいものだ。ただ強ければいいというわけではない。ゆるやかな、広がりも重要になりうる。言ってみれば、僕らはフィリアのネットワーク(蜘蛛の巣のような網目)の上に乗っかって、生きているようなものだ。フィリアの架け橋が、あちらこちら、細くても太くても、たくさん架かっていることによって、安定して生きていくことができる。
だから、フィリアを求めよ、と言うこともできる。そうして、フィリアからたくさんの良いものを得なさい、と。スピノザという哲学者は、体系的な哲学を築いて、よく難解と言われるけれども、ある解説者は、一言で、「出会いのエチカ(倫理)」と評した。良い出会いを求めること、悪い出会いをそっと退けること。そんな倫理。面白い表現だと思う。実際、僕らは多くの出会いから、非常に多くのことを学ぶ。
そして、僕らは再び、生の肯定に進む。生きることに「Yes!」と言う。もちろん、何度も危機は訪れるだろう、苦難が襲うだろう。……ああ、なんて孤独なんだ。なんて不幸なんだ。そんな叫びが、こみあげるかもしれない。それでも、ちょっとしたフィリアをたぐり寄せることで、わずかな糸に言葉を乗せて震わせることで、糸電話のようになにかが伝わり、ものごとの糸口が得られるだろう。フィリアとともに、僕らは「生きよう!」と言う。
ここには、たしかに理性の言葉が記されている。(つまり、僕がいま書いている文章のことだが。)ところが、「理性」は、必ずしもうまく働いてくれるものじゃない。人は、いつも理性にしたがって行動できるわけじゃないから。仮に、その反対を「狂気」と呼ぶならば、理性のあとには、狂気が来る。だが、狂気に駆られるのだって、とても人間らしいことだ。そして、狂気のなかにも一片の愛(フィリア)があるかもしれない。それどころか、沢山の愛さえ。そうして、狂気のあとに理性の光が射したとき、また落ち着いてフィリアを築き上げること、「よし、生きよう」と言うことも、とても人間らしいことだ。
こういう循環のなかで、「生きたい」と思えるようなフィリアを築いていくこと。いまここで「生きていたい」、ここからまた「生きたい」と思えるようになること。それ以上に素晴らしいことや、貴いことはないのではないだろうか。つまり、「ただ(たまたま)生きている」のではなく、積極的に「生きたい」と思って生きること。そういう人たちの生は、善きものではないだろうか。
こんな風にして、結論に至る。悪しき考えから、あの怨嗟の声からまったく自由にはなれなくとも、悪しきを遠ざけ、善きものを目指そうとすること、そういうことが僕らにはできる。あの「生きたい」という気持ちを取り戻すことができる。人間は、フィリアとともに、生の否定に抗い、生を肯定しようと、たえず働きかけ続けられるだろう。そんな風にして、僕らは、善き生を歩むことができるだろう。
初出:ブログ【珈琲ブレイク】:http://idea-writer.blogspot.jp/2012/10/blog-post.html
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
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