地震大国日本のMarch 11 を、アメリカのSeptember 11とは違う方向で再建へ!

著者: 加藤哲郎 かとうてつろう : 一橋大学名誉教授
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 2011.4.1   いま、世界で最も多くダウンロードされているのは、”Songs for Japan“というチャリティー・アルバムです。冒頭の歌は、ジョン・レノン「イマジン」。10年前の、アメリカのSeptember 11、同時多発テロの直後にも世界で最も広く歌われた、哀悼から希望へのヒューマン・ネットワーク・ソングです。いうまでもなくこのチャリティーは、日本のMarch 11 、3月11日の東日本大地震・大津波の3万人に及ぶ犠牲者を悼み、家族も家も食料・ライフラインも失った数十万人の被災者への支援のために作られ、売り上げは日本赤十字に寄付されます。世界の人々は、日本という国での人間の尊厳の扱い、日本社会における人間的絆と助け合い、突然究極の苦境に投げ出された人間の弱さと強さの表現の仕方に、注目しています。

 前回3月1日の更新で述べたように、3月はメキシコ、アメリカ滞在で、月末帰国しました。3月11日の金曜日の悲劇は、メキシコ大学院大学での連続講義の2回目が終わった後、東京からの「大丈夫」という家族の携帯メールで知りました。幸い東京の家も家族も無事でした。M9.0の世界史上4番目の大地震、広く太平洋岸を襲った巨大津波は、もちろんスペイン語世界でも大きく報じられました。インターネットだけが頼りで、ブラジルやフランス、ドイツ在住の日本人と連絡をとりあい、ユーストリームでのNHK24時間放送ライブを小さな画面で途切れ途切れ見ながら、情報を集めました。私の生まれ故郷は岩手県盛岡、宮城県の海岸線に住んでいる親族もいて、4日間行方が分からず、ツイッターからフェイスブックまで使って避難所情報を集め、ようやく無事が確認できて岩手に連絡できました。宮城の親族一家は、メキシコよりも情報が少なく、テレビもなく携帯電話もメールも通じず、盛岡までクルマを飛ばして、それを確認しました。中学時代を過ごしたのは岩手県大船渡市、かつて共に学んだ多くの友人・知人が被災したようです。私の1960年体験は、安保闘争でも三井三池でもなく、大船渡でのチリ地震津波。人間の死を初めて目前に見た記憶がよみがえり、三陸リアス式海岸の湾内に入って高さ十数メートルに増幅した大津波の威力、川が逆流し家屋や畳、布団が内陸部にまで流れてきた体験の悪夢が再現しました。痛ましく、言葉もありません。

翌週の講義では、当初沖縄問題で締めくくる予定だったのを変更し、日本の直面した苦境と悲惨を、画像や映像を用いてメキシコの人々に訴えました。地震や原発の慣れない英語の専門用語は、グーグルで調べました。メキシコも地震国で、東日本地震津波は、チリ地震津波の逆のルートで、ハワイ・カルフォルニアからメキシコ、ペルー等中南米太平洋岸にも到達しましたから、大いに関心を集め、心から同情されました。その場でメキシコ人学生たちの、日本への義捐金集めも始まりました。世界中の人々が、日本に同情し、共感し、心から支援の手をさしのべました。レスキュー隊の派遣も、数十か国に及びました。医師団の派遣は、日本の医師免許を持たないと言う理由で日本政府から断られたとのことでしたが。被災者のなかには多くの在日外国人がいました。メキシコ人もブラジル人も、中国人も韓国人も、アメリカ人英語教師や観光客もいました。その被災情報は、日本の外務省からは得られなかったようです。各国の大使館や旅行社等を通じて、数万人規模での東日本在住外国人の消息が、海外マスコミやウェブ、ファイスブック、ツイッターを通じて大きな話題でした。日本語情報はほとんどありませんでした。ニュージーランド地震の日本人犠牲者報道の裏返しでした。

 March 11で日本の受けた「天災」地震・津波の被害・被災には、世界の同情・共感が集まりましたが、日本の直面した第3の災禍、福島第一原子力発電所の原発震災には、世界の人々が、疑いの目を向けました。直後の米国による重水による冷却・封じ込めの協力申し入れが、日本政府と東京電力により断られ、どうやら原子炉事故の人類史的深刻さに気がつかず、運転再開の経済利害を優先しているのではないかと、特に英語報道は辛辣でした。水素爆発による破損やプルトニウムを含むMOX燃料を使っている3号機についての情報は、英語の方が詳細でした。米軍無人偵察機から撮ったと思われる航空写真を積極的に公開し、放射能漏洩の危険も、早くから報じていました。スリーマイル島のレベル5、チェルノヴィリのレベル7と比較し、福島はすでにレベル6-6.5というフランス、アメリカの評価は早くに定着しました。メキシコ政府も在日メキシコ人の日本離脱を勧告し、米国軍人・各国大使館員・中国人労働者の帰国が相次ぎ、大使館機能の関西移転、外資系企業のエクソダスも、当然と受け止められました。天気予報で日本の雲がいつカルフォルニアに到達するかが予告され、米国食料輸入の4%を占めていた日本製品の輸入はストップしました。それが「風評被害」でないことは、カルフォルニアばかりでなく米国東海岸やアイスランドでも放射能が観測され、日本政府が「安定している」と報じたにもかかわらず、上空からの赤外線写真で4つの原子炉が真っ赤になっている高熱状態や、FUKUSHIMAの原子炉設計にかつてたずさわった GE技術者の証言で、裏付けられていました。

現在も続く、この福島原発事故の危機管理をめぐって、日本政府、日本企業、日本の科学技術、日本のマスコミへの信頼は、地に墜ちました。急を要する地震・津波被災者への救援が進まないのも、そのためだろうと判断されました。実際、福島原発は、新たな被災者を日々つくりだし、水を、食料を、ガソリンと暖房を求める被災者のいのちの悲鳴を、世界に届きにくいものにしたのです。メキシコの学生から、日本は産業ロボットの最先端と聞いていたが、なぜロボットを使って原子炉の冷却・封じ込めを進められないのか、なぜ現地の放射線・放射能観測データが日々正確にでてこないのかと、素朴な質問を受けました。最も危険で過酷な現場で、冷却機能回復のために働く下請け「原発ジプシー」労働者のなかに、外国人労働者はいないのかとも聞かれましたが、メキシコからアメリカに移って後、ドイツの新聞に出たという記事くらいしか、情報がありませんでした。せっかく世界から得た「天災」への同情・支援が、原発「人災」の勃発と長期化のなかで日々減殺され、「地震大国日本の奇妙なエネルギー政策・危機管理」へと、世界の見る眼が変わってきています。

 最高責任者でリーダーシップを発揮すべき菅首相、東電社長が表に出てこないのも、奇妙でもどかしい光景でした。アメリカの9・11は、レームダックだったブッシュ・ジュニアを突如蘇生し、「対テロ戦争」の英雄にしてしまいました。イラク戦争の根拠とされた「大量破壊兵器」情報は、後に誤りとされましたが、アメリカ人にとっては国民の生命を守るリーダーでした。日本政府と東電の情報隠蔽と原子炉対応の右往左往は、日本の3・11が、米国の9・11とは異なるかたちで、政治のあり方を変容させ、社会の変貌をもたらすだろうことを、予感させます。それは、これから先、数年どころか数十年の日本の行方に刻印されるでしょう。問題は、その方向です。何よりも「人災」のもととなった原子力エネルギー依存政策がどうなるのか。ベトナムなど海外にも売り込もうとしていた原発技術がもろくもくずれ、すでにスリーマイル島以上、チェルノヴイリ寸前の「核汚染大国」になったのにそれを自覚せず、「ただちに健康に被害を及ぼすことはない」と繰り返す政府や「専門家」、マスコミに翻弄される国民のいのち。「安全・安心基準は厳しすぎた」と、当の基準設定者が公言する、倒錯した非日常の日常化。海外では、故高木仁三郎さんが死力を尽くして警告してきた「原子力資料情報室」、「ちきゅう座」などを通じてある程度の情報は得られましたが、この3週間の新聞にもまだ目を通しておらず、何よりも、初めて大画面でまのあたりに見る東北地方の被災映像、被災者の悲痛な声に圧倒されて、悲しみと怒りを表現する言葉が、うまく出てきません。怒りは、この膨大ないのちの喪失と生き残った人々の救援を前に、どうやら福島原発処理の対応にのみ力を注ぎ、失策を繰り返してきた日本政府、そうした政府を日本一の政治資金供給源として支え手なずけてきた電力会社に向けられますが、同時に、そうした政治を許してきた近代日本の「民主主義」の内部切開の必要を痛感します。

 2011年3月11日は、世界史的に意味のある日本沈没の日であり、再生の出発点にならなければならない転換点です。先週末まで通ったアメリカ国立公文書館の門前の言葉で言えば、“WHAT IS PAST IS PROLOGUE”(過去は物語の始まりである)。メキシコでの講演に用い、現在の日本の悲劇を暗示すると思われる、二つの過去の記録のみを提示して、読者の皆さんに自分で考えていただきたいと思います。「唯一の被爆国」日本の辿った、もう一つの歴史的真実です。

一つは、米国国立公文書館所蔵の「Nuclear Earthquake Plan」という1945年7月(と推定できる)米国戦略情報局(OSS、CIAの前身)の心理作戦(Morale Operation) 計画。米国の人権サイト「Paul Wolf’s universal rights」中の、「Histotrical Research/OSS-The Psycology of WAr/Moral Operation Branch/Japan」に公開されています。そこに「Causing Panic During Bombing Raids」と並んで、「Nuclear Earthquake Plan」として出てくるのが、皆さんに読んでもらいたい英文文書です。平たく言えば、ハーバード・ノーマンの日本研究や「地震・雷・火事・おやじ」という日本人の恐れる災害を人類学的・心理学的に分析しながら(ベネディクト『菊と刀』の手法)、もともとドイツのヒットラー政権壊滅のために作られた原爆を、ドイツの降伏後、日本で人工地震を起こすために使おうとした作戦計画書。実際には、8月広島・長崎に上空から直接使われ、人工地震パニックという迂回作戦にはなりませんでしたが、米国が、日本人が一番恐れているのは地震だということを熟知していたことを示す文書です。その地震国日本に、占領・朝鮮戦争後のアメリカは、なにをもたらしたのでしょうか?

もう一つは、Scrap Japanというサイトに、「原発ドキュメンタリー」の一つとして出てくる、「原発導入のシナリオ:冷戦下の対日原子力戦略というNHK1994年放映スクープドキュメント。主人公は正力松太郎読売新聞社主、アメリカ・アイゼンハワー大統領の有名な1953年末国連演説「Atoms for Peace」を受けて、正力松太郎、中曽根康弘らが、日本に「原子力の平和利用」をプロパガンダした記録。これと有馬哲夫さん『原発・正力・CIA』(新潮新書、2008年)や私の「戦後米国の情報戦と60年安保」を併読すれば、CIAエージェント「PODOM」こと「プロ野球の父」正力松太郎が、日本初のテレビ放映権をアメリカから得た後(「テレビの父」)、自ら初代原子力委員長・科学技術庁長官(「原子力の父」)として原子力発電導入に奔走した歴史的事情が、よくわかります。同じサイトからアクセスできる、「原子炉解体:放射性廃棄物をどうする」というチェルノヴイリ後の1988年制作NHKスペシャルも、今後の福島原発の廃炉・解体の行方を考えれば、必見です。2011年3月のNHK報道は、はたしてこうした先達のジャーナリスト精神を受け継いでいたでしょうか? 検証は、これからです。

「加藤哲郎のネチズンカレッジ」から許可を得て転載 http://www.ff.iij4u.or.jp/~katote/Home.shtml
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
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