多数者革命とちぐはぐな党運営

――八ヶ岳山麓から(449)――

はじめに
 わたしは社会主義の未来を信じない。だが、共産党を支持する。日本民族の対米従属状態からの脱出を目指しているからである。かつての社会党が今も存在していれば、社会党も支持していたはずである。
 このたび、共産党第10回中央委員会総会(「10中総」)での志位委員長・小池書記局長両氏の冒頭発言と、来年1月の第29回党大会向けの「決議案」を読んだ。とにかく長いもので、ほとほと疲れた。こんなに重厚長大でなければ、政治路線を主張できないのだろうか。
 「決議案」には、新自由主義とグローバル化がもたらした地球規模の格差や日本の対米従属による主権喪失、岸田大軍拡、30年におよぶ経済の停滞とその再建案など、共感するところもかなりあった。
 その一方で、この「決議案」がロシア・中国の強権政治の強化、トランプに象徴されるアメリカの反議会制民主主義への傾斜、それにともなう21世紀日本政界・社会の変化を十分にとらえているかといえば、これには疑問がのこった。
「決議案」に目立つのは、日本社会の変化に適応できず、現状と「ずれ」が大きな組織の体質、この党独特の「かたくなさ」である。
「10中総」に対しては、すでに広原盛明氏の適切な指摘がある(2023・11・20)。以下、それと重複する部分があるが私の考えを述べたい。

批判への過剰反応について
 「決議案」はいう。「わが党を『異論を許さない党』『閉鎖的』などと事実をゆがめて描き、民主集中制の放棄、あるいはこの原則を弱めることを求める議論がある」「わが党が民主集中制を放棄することを喜ぶのはいったい誰か。わが党を封じ込め、つぶそうとしている支配勢力にほかならない。わが党は、党を解体に導くこのような議論をきっぱりと拒否する」と。
 これは、かもがわ出版編集主幹松竹伸幸・もと共産党京都府常任委員鈴木元両氏の除名に対するメディアの批判への反批判である。だが、わたしが見た範囲では、両氏の除名を問題にしたメディアで、「民主集中制の放棄」を求めたものはなかったと記憶する。
 その多くは「組織防衛の論理を優先させる対応が、かえって傷口を広げているように見える」「今回の騒動への対応には……閉鎖的な組織と見られても仕方がない面がある」といったものであった(たとえば信濃毎日 2023・02・23)。
 こうした批判に対して、「共産党をつぶそうとしている支配勢力にほかならない」などというのは、「敵」ではないものを敵にまわすものであるばかりか、「異論を許さない党」を自ら証明しているようなものだ。
 さらに、志位氏らがメディアの除名批判に「結社の自由」を持ち出して反論したのも過剰というよりも間違いだった。共産党も政権を目指す公党だ。いくら「結社の自由」があるとはいえ、党の組織運営の仕方が世論を無視したものであれば、だれだって警戒する。政権政党になったら、「おっかないことが起きるかもしれない」と考えるからである。
 「除名」という処分が世間にどれだけ悪い印象を与えたか、それがわからないものだからこんなノウテンキなことを言っていられるのである。

規約適用の仕方について
 また「決議案」はいう。「党の外から党を攻撃する行為は規約違反になるが、党内で規約にのっとって自由に意見をのべる権利はすべての党員に保障されている。異論をもっていることを理由に組織的に排除することは、規約で厳しく禁止されている」と。
 つまり、松竹・鈴木両氏の除名は異論を唱えたからではない、党内問題を外に持ち出したから、さらにこの二人による分派活動があったからというものである。
 だが、現在の規約には「党の内部問題は、党内で解決する」「党の決定に反する意見を、勝手に発表することはしない」という条文がある。
 これだと、党の決定に異論を持った党員が自分の考えを全党員にわかってもらうには、中央指導部の許可を得ない限り不可能だ。知る限り、1961年綱領論争以来、党員の意見が全党に紹介され可視化された例は2004年党綱領決定時だけである。いきおい、規約違反の可能性を承知しながら党外で自説を発表するものが出るのは避けられない。
 松竹氏は党大会に除名撤回を求めている。「党首公選」「核抑止抜きの専守防衛」を主張した自らの出版問題については、「旧規約ならば違反だが、現行規約では自身の行動は規約違反にはならない」と解釈論を展開し、また「分派行動」については、松竹・鈴木二人の分派などあり得ないという。
 だが、規約の解釈権は事実上最高指導部にあるうえに、党規約には「分派」の明確な定義がない。大会代議員の大半は、党中央に逆らう気のない党専従者である。松竹氏の要求は実現しない。
 とはいえ、わたしが見たところ、指導部の規約適用のしかたは恣意的である。
 たとえば、2015年志位氏は記者会見において、国民連合政府は急迫不正の主権侵害には、自衛隊はもとより日米安保条約第5条も発動するといい、さらに党としては、自衛隊は違憲、党が参加した政権としては合憲だと発言した。
 共産党の安保政策を変えたこの重大な発言は、九条の会の運営にも影響を及ぼすものだった。だが、討論と決定によって行われたものではない。だから一般党員・支持者でこれを知らない人も多い。にもかかわらず、志位発言は規約違反とはされなかった。松竹・鈴木両氏の場合は除名だった。

幹部選出の制度について
 「決議案」は、「党のすべての指導機関は、自由で民主的な選挙をつうじて選出されている。これらの党規約がさだめた民主的ルールは、日々の党運営において厳格に実行されている」という。
 ところが、規約では「指導機関は、次期委員会を構成する候補者を推薦する」となっている。だから志位・小池をはじめ現在の中央地方の役員は、ほとんど自分で自分を次期幹部に推薦し、事実上の信任投票で選ばれたものである。推薦名簿に載らない自薦候補者が当選する見込みはない。定年制・任期制のないこの制度では、人事刷新の道が閉ざされている。
 私が中国で見た県人民代表選挙では、候補者を共産党がきめていた。日本共産党の役員選挙もこれとほとんど同じだと思うが、これが民主選挙か?
 さらに滑稽なのは、全党員の参加による党首公選をやれば派閥が生まれる、だから党首公選はやらないという論理である。中央委員会200人による選挙でも、派閥を作ろうと思えば可能である。共産党の国や地方の議員、常勤役員がこぞってこの現行幹部選出方法を「民主的な選挙だ」と支持している。自分の地位が保全されるからであろうか。

おわりに
 近頃の世論調査では、いずれも無党派層が有権者の半分前後存在する。この層のかなりの部分は、政治的関心はもちながらも、政党からは距離を置こうとする個人主義的な青壮年である。共産党が支持を開拓すべきはこの層だ。
 だが、志位氏は先日、「多数者革命」は自然には生まれないとして、こう語った。
 「(共産党は)不屈性と先見性を発揮して、国民の自覚と成長を推進し、支配勢力の妨害や抵抗とたたかい、革命の事業に多数者を結集する。ここにこそ日本共産党の役割があります(赤旗2023・11・19)」
 前衛党という言葉は共産党の綱領からなくなったが、ここでは「革命意識は外部から労働者階級に注入しなくてはならない」という、レーニン以来の「前衛と大衆」というエリート思想が生命力を持っている。
 共産党の最高指導者は、この考えで束縛を嫌う現代の若者を惹きつけ、党員・赤旗読者を増やし、国会で多数を占める「多数者革命」が可能だと考えているのだろうか。
(2023・11・20)

初出 :「リベラル21」より許可を得て転載http://lib21.blog96.fc2.com/

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