大きな思い上がりと小さな思い上がり―テレビをめぐる見たくない現実

著者: 田畑光永 たばたみつなが : ジャーナリスト
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暴論珍説メモ(137)

 このところ、一定期間おきに症状が出てくる病気のように、またぞろテレビ報道に政治家があれこれ注文を付ける見たくない事態が起きている。私は報道という仕事は常に外部からの批判、注文には謙虚に耳を傾けなければいけない仕事だと考えるので、政治家があれこれ注文を付けることを一概に否定する気はない。なぜなら報道メディアの浸透力は、もしそれによってなんらかの被害をこうむったと感じた一般人が自力でそれを挽回しようにも、通常はそれが不可能なほどに強いから、その力を日常行使する場所にいる人間は自分の行動の影響の大きさを常に意識して、慎重に事に当たらなければならないからだ。
 最近の出来事を簡単に整理すれば、3月27日のテレビ朝日「報道ステーション」でコメンテーターの元通産官僚・古賀茂明氏が番組降板に至った経緯を述べたのに合わせて、「菅(義偉)官房長官をはじめ官邸のみなさんにはものすごいバッシングを受けてきた」と発言したのが一件。それからいつ明らかになったのか私は知らないのだが、去年の5月にNHKが放送した「クローズアップ現代」で融資をだまし取るブローカーとして登場した人物が「記者の指示で演じたやらせだった」と主張し、それについてNHKの中間報告では場所の表現に誤りがあったとだけ訂正したのが一件。
 一方、古賀氏にバッシングをしたとされた菅官房長官が3月30日に反論して「事実無根、放送法という法律がある。テレビ局がどのような対応をされるか、しばらく見守っていきたい」と述べたのが一件。4月17日に自民党の情報通信戦略調査会が上の2件のテレビ局側の問題について、テレビ朝日とNHKの幹部を呼んで事情を聞いたのが1件、都合4件が最近の出来事である。
 私見ではこの4件の当事者の行動にはいずれも問題がある。順番に見ていこう。
まずテレビ朝日での古賀氏の発言について。世上では古賀氏の出演終了についてご本人とキャスターとのやり取りも云々されているが、そんなものは見っともないだけのことでどうでもいい。問題は古賀氏の「官邸からバッシングを受けた」という発言である。これはいけない。古賀氏には思い上がりがあったのではないか。「自分が言えば、世間の人はそのまま信じてくれて、政府の圧力でテレビを降ろされた気の毒な人と思われる」という思いあがりである。
 しかし、政府当局者がそんなことを言われて、黙っているはずはない。菅官房長官が反論するのは当然である。だから古賀氏は官房長官を名指しで批判するなら、「いつ、どこで、どういうバッシングがあったのか」をきちんと言わなければならない。それなしの批判は誹謗中傷にすぎない。したがって非はまず古賀氏にある。
 では菅発言には問題はないか。「事実無根」というのは、古賀氏が具体的な事例を言わなかったのだから、本人が事実無根と思うならそのように発言することは彼の権利である。けれど次の「放送法という法律がある」以下の言葉は権力を笠に着た明らかな脅迫である。政府に電波を割り当てる権限があり、それがなければ放送局が成り立たないことを盾にとって、「オレに言いがかりをつけるなら免許を取り消すぞ」と言っているのと同じである。これは悪質である。権力を笠にだれでも自分に従わせようという安倍政権の思いあがりがそのまま出た発言である。古賀氏の幼稚な非とは比べものにならない。
 次にNHKの「やらせ」疑惑。真実がどうなのかまだはっきりしないのだが、これまでの対応にはここにもまたNHK独特の思い上がりが見える。かつて民放のワイドショウなどでやらせが問題になった事件がいくつかあったが、どれも社の最高幹部(多くは社長)が画面に出て来て謝罪し、原因究明、再発防止を視聴者に約束したものだ。当然である。テレビ局が放送する番組は情報商品である。やらせを放送するのは偽物を売るのだから、しかも他の商品と違って、消費者(視聴者)には見分けがつかないのだから、罪ははるかに重い。やらせを疑われたら、食品会社の製品に異物が混入されていた以上の真剣さで取り組まなければならない。しかし、これまでのところNHKの対応にはそういう真剣味が感じられない。もっと世論の糾弾を浴びて当然である。
 最後に自民党の情報通信戦略調査会である。そもそもこの名前からして尋常でないが、それはともかく、政権与党とはいえ一政党が放送局を呼びつけ、局側も従順に出て行くというのは、すくなくとも対等の関係でないことを示している。放送局は民間組織であるから、第三者はそんな場に出るべきでないとは言えるが、出て行くなとは言えない。
 さて出てからである。局側は「事情を説明した」という以上のことは言わなかったが、自民党側の川崎二郎同調査会長はとんでもないことを口走った。報道されているように、日本民間放送連盟とNHKが2003年に設置した「放送倫理・番組向上機構(BPO)」に政府が関与する仕組みの創設を含めて検討するというのだ。
 川崎氏の弁、「テレビ局がお金を出し合う機関がきちんとチェックできないなら、独立した機関の方がいい。BPOがお手盛りと言われるなら、少し変えなければならないのかなという思いはある」(4月18日『毎日』)。
「独立した機関がいい」と言いながら、現状を「変えなければならないのかな」とはどういうことか。批判は自由だが、自分たちの思うように変えるというのは、政府に近い立場を利用して、つまり権力を笠に着て、民間の組織に手を突っ込もうということだ。しかも前述したように、政府は電波の割り当てという放送局の生殺与奪の権力をすでに握っているのに、である。安倍政権につらなる面々は民主主義の根幹を忘れて、権力に溺れている。
 これが最近の出来事についての私の見方である。安倍政権の思い上がりは目に余るが、それを許しているのは、この場合は、テレビを使う側の小さな思い上がりによる脇の甘さである。政権を批判する際には、きちんと事実に基づいて行い、「バッシング」があった場合にはその具体的な事実を明らかにするぐらいの覚悟をもって仕事をしてほしい。

初出:「リベラル21」より許可を得て転載http://lib21.blog96.fc2.com/
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