大久保友紀子―わたしの気になる人⑨

 大久保友紀子は、白いコートにブルーのスカーフを巻いていた。知的で美しい人という印象をうけた。友紀子の長年の友だちで作家の大井晴の仲介により、わたしは友紀子に会ったのだった。72歳の友紀子は、共産党を離れていた。〈男に食べさせてもらうのはいやだ、と思ってやってきたけれど、職業婦人として自分は早すぎたかもしれない〉と、友紀子は回想した。〈かれらの権力闘争のなかで踊らされたのです。当時、組織のワナや怖さも知らなかった。いまは、自分の無知を知らされている。自分を語ることを学んだ〉ともいう。
 大久保友紀子が共産党のアカハタ編集局の速記部につとめたのは、1946(昭和21)年3月から。1950(昭和25)年1月に同局の国際放送部を解雇されている。37歳のこと。友紀子は、書記長徳田球一・伊藤律など主流派と志賀義雄・宮本顕治など反主流派の、熾烈な抗争のはざまで翻弄された。友紀子の職場でのたたかいだ。いちどきに、セクハラ、パワハラ、リストラを食らったようなもの。その間に女が肉眼でとらえた男たちの、欲深さや愚劣さや巧妙さが交錯する人間ドラマは、すさまじい。友紀子は追想する。〈伊藤律は、若いときから獄中にいて自分には青春がなかった、と言っていました。ラブレターは幼稚っぽかった〉〈宮本顕治は、どっしりとしていて立派に見えた。無口でした。頭のよい人で、やることすべてわからないようにやっていた〉と。
 この国はGHQの占領下で、時代の転換期にあった。その数年間に体験した女のドラマも、友紀子が、第6回党大会の「行動綱領」の速記録紛失という事件に遭遇したことが源にあるようだ。友紀子は、組織のなかで大まじめに奮闘した。とかく女の具体的事実は無視されがちだけれど、男たちの整備された正史のかげにかくれた事実を、友紀子は胸にしまっていた。体験の傷痕はふかくて、友紀子は、最晩年まで党の幻影におびえていた。


 
1912(大正元)年9月、大久保友紀子は、山形市に生まれている。本名を大久保知恵という。4人きょうだいの次女で、7歳のとき実母と死別。継母に育てられる。父親は台湾の総督府につとめる官吏であった。森林主任をしていた。厳格な人であった。友紀子は、父がいなければよいとさえ思った。勉強せよとやかましい。孔子の論語を暗唱させる。琴のけいこを命じ、外で友だちと遊ぶことを禁じた。〈幼少のころから、自分の意見を述べる気の強い女の子でした〉と、友紀子はいう。小学校は台北を転々とした。女学校は台中の州立高女に学んだが、退学する。13歳のおり上京。東京の常磐松高女(トキワ松学園高校)の3学年に編入した。1928(昭和3)年、4学年を終えて卒業。きびしい父は上級進学を認めなかった。友紀子は、青山通りの古本屋で『羽仁もと子全集』、ベーベルの『婦人論』をもとめる。父親にかくれて小林多喜二の『蟹工船』を読んだ。プロレタリア文学に初めて接し〈変わっている社会だな〉とおもう。
 19歳で実家をでる。台湾にいるころからマスコミに興味をいだいていた。友紀子は、京橋の日本評論新聞社を、紹介状をもって訪ねた。1930(昭和5)年のこと。主宰者が新聞社の2階に住んでいた。独身男にみえた。じつは大阪に妻がいた。愛人もいて芸者遊びもする。友紀子は、かれと半年間同棲した。1933(昭和8)年、女児を出産。未婚の母となる。男は台湾の本社から将来を嘱望されていたが、三井財閥のワルクチを書き閉業に追いこまれて、外国へ逃亡した。女児はかれの妹が育てる。友紀子は肺結核をわずらい働けない。その窮状を救ったのが、30歳上の宗教家であった。彼女のもとに寄食しつつ結核を治す。速記と英文タイプの専門学校にも、通わせてもらうのだった。
 友紀子は、佃速記塾に3年、皆勤し、首席で卒業した。塾の研修期間中にほかの生徒とともに、作家貴司山治の新聞連載「維新前夜」を速記している。貴司の自宅で、夏場は軽井沢の宿で。1939(昭和14)年から1940(昭和15)年ころのこと。塾を卒業すると、産経新聞社に速記士として就職。月給120円であった。防空頭巾をかぶって、陸軍参謀本部や海軍省に行き、取材した。〈たのしかった〉と友紀子は追想する。中野区の、家賃23円の高橋会館に住まう。6畳間と水洗トイレつきのモダンなアパートであった。ここに同県人の大井晴も住んでいた。

 戦後、友紀子はアカハタ編集局につとめる。〈平等な世の中の実現をめざす〉という、党のかかげる標榜が魅力的で、入党した。マルクスやレーニンなどの知識はなかったと友紀子はいうが、思想的に社会主義に近づいていた。姉と結婚する阿部勇は、1937(昭和12)年、人民戦線事件で検挙された。翌年、非転向で出獄する。刑務所からもどされた、ドーデやトーマス・マンなどの翻訳書を、友紀子はむさぼるように読んだ。阿部は法学者美濃部達吉の弟子の1人だ。友紀子は、そのグループの学者たちと交流し、ダンスをしたりトランプをしたりして遊んでいる。思想的にも影響をうけている。阿部はのちに法政大の教授になった。
友紀子は、党学校で、徳田や志賀の肉声を速記することに〈有頂天になった〉という。志賀の、文学と結びつけて話す講義は、よかった。経済学者宮川実の資本論の速記では、ミスしてはいけないと緊張し、ふと気が遠くなり倒れた。むし暑い教室であった。友紀子の眉の上にそのときの傷が残っている。
 1947(昭和22)年12月21日から23日に開かれた、第6回党大会では、徳田の「一般報告」と宮本の「行動綱領」を、友紀子は速記した。ところが、大会2日目の夕がた宮本の秘書がきて、「行動綱領」をふたたび反訳せよとたのまれる。編集局次長は〈速記録は自分がなくした〉というが、〈おとなしい〉かれは請われて伊藤にわたしたのではないか。友紀子はそのとき推察した。1950(昭和25)年、その「行動綱領」はGHQからでてきた。この情報を友紀子がキャッチするのは1955(昭和30)年、党の統一が回復した六全協後のこと。宮本の「行動綱領」には、民族独立の重要性が宣言されていた。GHQは、党の今後の動向や方針をさぐっていた。「行動綱領」は速記録も秘密にすべきもの。伊藤がほしがったゆえんだ。このときの、宮本の屈辱は、さぞかし深かったにちがいない。
 この翌年から、伊藤の、友紀子へのしつこい接近がはじまる。友紀子は、肋骨カリエスの悪化で編集局を2か月欠勤した。八王子へ帰宅する伊藤がアパートにたちよる。そのたびに、伊藤はGHQからの物だとはっきりいって、チョコレートやりんごや砂糖や石鹸をわたす。当時は貴重品だ。伊藤は友紀子のベッドのわきに座って雑談する。〈自分のひとみにはいくつかの星がある。これは天才の証拠だ。大それたことをすることになるという占いがあって、恵一を律に変えた〉〈農家にそだち、子どものころから肥桶をかついだために背が伸びなかった〉などと。編集局では、2人のことが話題になっていた。〈かれはドンファンだから気をつけろ〉と注意してくる。〈信じてくれ。中央委員が恋愛をしていけないのなら、委員を辞める〉と、伊藤は応じる。〈ああ、伊藤さんは恋愛のつもりなのか〉と、友紀子はおどろく。伊藤は数人の女たちとの恋愛を〈戦略戦術〉と考えていた。友紀子には、おなじ道をいくども歩きながら語らいあう西沢富夫がいた。〈ひとみのきれいな、純な〉かれには妻子がいたが、友紀子を窮地から救いたいと求婚したそうな。
 友紀子が国際放送の速記係に配置転換されても、伊藤はつきまとった。部屋の窓ぎわを1日に何回もとおる。部長の武井昭夫が窓ガラスに紙をはり目隠しした。1949(昭和24)年9月、友紀子は、北京放送をきき、中華民国の成立宣言を徹夜で速記している。モスクワ放送も担当したが、雑音が入って聴きとりにくかった。
 友紀子の周りには、意外なことがつぎつぎと起こる。1949(昭和24)年1月には、総選挙が行なわれ共産党は35人の当選者をだした。「有能な実務家」伊藤の功績といわれている。7月から8月にかけて、下山事件、三鷹事件、松川事件がぼっ発した。そして年度末のこと、党本部の編集委員と細胞委員が、伊藤の女性関係についてききたい、と編集局に集まった。西沢隆二(ぬやま・ひろし)は、両手で膝をポンポンとたたきながらいう。〈伊藤の成長はめざましい。最近の『前衛』の論文はだれにも書けないだろ。それがうらやましくて中傷しているのだ。これまでのことは自分が悪かったと、伊藤はいっている。あと2年もすれば革命は成功するので、家に帰ってチンとしていなさい。自分の命令は徳球の命令だ〉。
 ところが、友紀子たちを帰したあと、西沢は会議を開くのであった。伊藤が〈第6回党大会の速記録をなくしたのは大久保ではないかとおもい、近づいた〉と発言。小野義彦が友紀子に〈ほんとうか〉ときいてきた。罪をなすりつけられてはたまらない。はっきりさせよう。〈闘争心がもりもりわいてきた〉友紀子は党本部へかけこんだ。徳田と西沢は、小野を呼びつけていた。友紀子の目前で、小野に〈決定違反〉による〈出勤停止〉をいいわたした。小野の政治生命が断たれてはもうしわけない。友紀子は、統制委員会の開会を要求した。開会へと自力でこぎつけた友紀子の判断力と行動力。伊藤とは性関係はなかったことが、友紀子を毅然とさせていたのではなかったか。
 作家松本清張は「革命を売る男・伊藤律」(『日本の黒い霧』文藝春秋)のなかで、小野などを追放したのは「伊藤律の仕業」と書く。が、「行動綱領」の紛失には触れていない。友紀子の存在も。松本の推理力、判断力、調査力は卓抜だが、さきの「行動綱領」紛失の件を視野に入れていれば、作品はさらに濃密になったであろうか。
 1950(昭和25)年1月、開会される。議長の宮本が〈報告しなさい〉と友紀子をうながす。これまでのいきさつを書いた手記を読んでいくうちに、涙がとまらない。よこから〈興奮しないで〉と宮本が制してきた。読みおわると〈よくわかった〉という。
 翌1月8日付の朝日新聞が、コミンフォルム(欧州共産党情報局)論評を報じていた。内外ともに問題があったのだな。友紀子はおもう。その機関紙最近号が、党の指導者野坂参三は、「ブルジョア態度をとっていて、帝国主義者の召使」だと、非難しているというのだ。この報道にたいし、主流派は「党かく乱のデマをうち砕け」と発表。反主流派は「デマでない可能性がつよい」とした。
 1月末、友紀子は給料をとりにいく。〈小野の家に行っただろ。きみは決定違反したから今後、党はめんどうをみない〉西沢は友紀子に解雇をいいわたした。〈宮本さんは承知しているのですか〉〈あれはもう議長じゃないよ。九州へやった〉。〈下劣な態度だ〉と友紀子は怒る。『日本共産党の七十年』によれば「九州地方の指導に長期に派遣」したとある。

 除名された小野の反撃がはじまる。いや、宮本の巻き返しかもしれない。小野は宮本派に属していた。宮本は1958(昭和33)年、書記長に就任するが、その権力掌握めざしての戦略がスタートしたとみるべきか。小野が友紀子に、〈うちに来て、明朝までにくわしい手記を書いてくれ〉という。目的は明かさない。友紀子は〈そのころは党に忠実であろうとした〉と顧みる。1950(昭和25)の春のこと。友紀子は200枚にまとめた。友紀子は速記士だから書くのが速い。程ないとき、「手記」は袴田里見にわたしたと小野がいう。その年12月、袴田は中国に密航する。その「手記」をたずさえた。それが伊藤の「スパイ説」裏づけの一端になったようだとは、袴田夫人から、友紀子はきいている。「日誌」は、宮本に利用された。宮本は、伊藤のスキャンダルを暴いてかれを失脚させようとしたのかもしれない。自らの手を汚さずに。〈宮本が自分で行けばいいのに。百合子のことが心配で行かない。だから自分が行く〉と、袴田はいった。2人は、1933(昭和8)年12月に起きた共産党リンチ事件以来、密接な関係にあった。宮本百合子は作家で、宮本の妻である。
 1950年6月、連合軍最高司令官マッカーサーの公職追放の指令があった。この機に党は分裂する。党の中央委員がすべて追放された。伊藤が中国へ脱出するのは、翌年9月のこと。前年に設立された北京機関(分派による亡命機関)で、伊藤は自由日本放送を担当。伊藤は日ごろから〈つぎの書記長はおれだ。徳田も西沢もいっている〉と自慢していた。それを知ってか、袴田がその背中をおした。〈つぎの書記長はきみだ。中国に行って勉強してこい〉と。
1952(昭和27)年12月下旬から、伊藤は野坂の査問をうける。野坂は、宮本派に寝返っていたのか。たちまわりの上手な男だ。徳田も伊藤に問いただしたようだ。伊藤はきりかえす。〈そうだ。それを見抜けなかったおやじさんも、同罪だ〉と。徳田はさぞやかし悔しかったろう。徳田は、渦中の友紀子が家をたずね、伊藤からの手紙を証拠に事実を直訴しても、下部党員の言いぶんには耳を傾けようとしなかった、というではないか。
 1953(昭和28)年9月、「アカハタ」に、伊藤の反党分子としての除名が発表される。伊藤には「腐敗した異性問題をふくむさまざまの党規律違反」があったと、正史は記録する。伊藤を除名で追放して、はたして、組織の問題はかたづくというのか。文芸評論家平野謙が疑問を投げかけている。

 1980(昭和55)年9月、伊藤が29年ぶりにこの国に帰ってきた。中国での27年におよぶ獄中生活から解かれて。羽田の飛行場におり、伊藤は用意された車椅子に乗る。息子がそれをおす場面がテレビに放映されたのを、わたしはおぼえている。まだ友紀子と会っていないときであった。さっそくマスコミは、友紀子を追いかける。清瀬市の、ブリキの外壁のアパートの窓から記者たちがのぞく。「週刊現代」と「サンデー毎日」が記事にしている。わたしは、アナーキストで作家の八木秋子のことを取材しているおり、偶然、友紀子のこの元住まいをみつけている。
 友紀子のもとには、党幹部からの手紙が保存されている。その1通、1956(昭和31)年付の、亀山幸三からの年賀はがきに、〈公然と話せる時ですよ〉とあった。分裂していた党が統一した翌年のこと。しかし、それを過ぎても、数年間の実体験は、友紀子のトラウマになってしまった。〈理論的に反論できなかった自分の未熟を反省しています〉と、友紀子はいう。その口調は雄弁ではない。ことばでごまかすことをしない。観察眼がこまかく記憶力もよかった。〈女がつよく生きるにはどうすればよいか。なにをやっても生きぬこう〉友紀子は、食堂も氷屋も健康食品店も、タイプ請負業もやった。その間に、モンテーニュと出会い〈自分を語る〉ことを学んだ。モンテーニュは16世紀ルネサンス期を代表する哲学者。現実の人間を洞察し、人間の生きかたを探求しつづけた。友紀子のドラマは、前衛党という職場だけのことではないとおもう。組織のなかで個人を確立すること、困難だがその大切さを、友紀子は、せつせつと訴えたかったにちがいない。(2015・9・25)

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