大規模金融緩和政策を検討する(その2) 非現実的な仮説にもとづく物価目標政策

「消費者は物価目標たいして合理的に行動する」という空想仮説
 現在、欧米諸国はインフレ高進を阻止するために、一定の物価目標を決めて、金利を漸次的に引き上げている。インフレが落ち着くまで、この金融政策が取られる。
 他方、日本が行っている物価目標は、インフレ抑制のためではなく、インフレを起こして経済成長を図るための政策である。このような政策が成功した事例はない。物価水準が経済成長の本質的要因であるはずがないからだ。ところが、「デフレが成長の阻害要因」だと断定し、物価水準を上げることができれば、成長のサイクルが始まるという根拠のない議論を展開したのが、いわゆるリフレ派である。
 リフレ派が根拠としたのは、消費者は物価目標に合理的に反応するという仮説である。「明日から商品価格が10%上がります」とアナウンスされれば、消費者は先を争って、商品の買いだめに走るだろう。しかし、物価目標政策はこのような衝動的な消費者行動を前提するものではない。「今年の物価は2%程度の上昇が予想されます」とアナウンスされて、消費者は不要不急の商品購入を急ぐことはない。常識的に考えて、この程度の価格上昇予想で、消費者が物価目標に反応して、能動的な行動を起こすことなど考えられない。
 しかし、リフレ派はなぜこのような単純な間違いを犯したのだろうか。そこには現代経済学が抱える深刻な問題がある。

金融経済と実物経済は本質的に異なる
 金融経済と実物経済は本質的に異なる。だから、経済学も金融経済学と実物経済学に区別されるが、現代経済学は実物経済を把握する有効な手段をもたない。それにたいし、金融経済については金融市場における経験から種々のモデルや理論が構築され、短期長期の予想に使われている。こうしたことから、多くの経済学者は実物経済を語るときに、金融経済分析で獲得された理論やモデルを援用して実物経済を語ることが多い。一般的な経済観測でも、「市場」は「金融市場」と同一視されることが多く、個別の商品市場がマクロ経済学のテーマになることはない。しかし、金融経済と実物経済を同類視し、金融経済分析で実物経済分析を代用してしまっては、実物経済のメカニズムを捉えることはできない。大規模金融緩和策も、このような代用分析の罠にはまってしまった空想的前提に依拠するものだ。
 金融現象の理論化やモデル化が比較的容易なのは、取引の同質性から帰結する。すべて貨幣単位で議論を展開することができる。しかも、各種金融市場が発展し、金融市場のプレーヤーは厳密な数理計算で、損失や利得を計算できる。金融経済では大きな資金を動かす投資家(機関投資家)は利回り、利子率あるいは為替の微小な変化に反応して、資金を運用している。事前予想が確実だと見做せば、0.1%の変化でも、投資家は合理的に反応して投資行動を起こす。これにたいして、一般消費者が年率2%程度の価格上昇に敏感に反応することはない。金融市場の投資家行動と一般消費者の消費行動はまったく異なる。
 とはいえ、金融経済の投資家行動から、実物経済の一般消費者の行動を類推することはできないだろうか。金融経済の変化が一般消費者の行動に影響を与えるのは、銀行ローンを経由する消費財購入や不動産購入である。もし今年中に金利の2%上昇が予想されますとアナウンスされれば、不動産購入を考えていた消費者は行動を速めるだろう。ローンで耐久消費財を購入している消費者も、買い替えを考えるだろう。しかし、日本の場合は、金利が低水準に抑えられたままで物価目標をアナウンスしているのだから、銀行ローンを経由する影響はないに等しい。まして、一般消費財の購入にも銀行ローンを利用するアメリカと違い、日本の消費者はむやみに銀行ローンを使った消費財購入を行わない。
 このように見ると、年率2%の物価目標が消費者行動に与える影響は無視できるほどに小さいと考えるのが常識的である。ところが、リフレ派が物価目標の正当性を主張するのは、金融経済における投資家行動の類推にもとづいて、実物経済における消費者行動を想定しているからである。これこそ物価目標政策が機能しない根本原因である。金融経済と実物経済のプレーヤーの本質的違いを考慮せず、あたかも金融投資家であれ、生産者であれ、消費者であれ、同じように合理的に行動するはずだと考えるところに、思考の陥穽がある。
 棄却すべき架空の仮説を強弁し続けるのは、実物経済について、これといった見識を持ち合わせていないことの証左でもある。

合理的期待形成論は規範的モデル
 それにしても、なにゆえにこのような架空的仮説が支持され続けてきたのだろうか。その理由の一つに、いわゆる合理的期待形成の理論がある。ノーベル経済学賞を受賞した理論モデルであるが、これは経済主体が合理的に行動する結果、期待インフレ率が一定の水準に収束するという理論仮説である。
 このモデルは経験的事実による分析ではなく、モデルの前提として、「経済主体が合理的に行動する」と想定するものだ。この種のモデルは現実の経済現象を説明する議論でなく、最初から合理的行動を前提とする規範(先験)的な議論である。数式自体も収束値や最適期待値の存在を前提する数理モデルで、現実の物価上昇にたいする人々の行動を説明する仮説ではない。したがって、合理的期待形成論は現実の物価目標政策を支える仮説にはなり得ない。「物価上昇が予想されるのだから、完全情報を保有し、合理的行動をする賢明な経済人は消費を増やす」という想定自体が、経験的事実によって定立された命題ではなく、たんなる規範的仮説にすぎない。現実分析から仮説命題を立てるのではなく、観念的仮説から現実を説明しようとするのは、本末転倒思考である。
 現実の経済行動を分析するためには,金融市場と実物市場の区別、消費者と生産者の区別、金融投資を行う消費者とそうでない消費者の区別、財テクを行う企業とそうでない企業を明確に区別して、それぞれの経済行動を観察しなければならない。それらの経験的事実の収集と分析を怠り、規範的仮説から出発して経済主体の行動を説明するのは観念論であり、現実経済を捉える議論にはなり得ない。
 日本の大規模金融緩和が大前提とした物価目標の議論は、架空の経済空間を想定した議論である。事実による裏付けのない仮説や議論に依拠した政策だから、初めから実効性のない政策だった。誤った政策を維持し続け、社会に大きな負の遺産を積み上げる愚策から逃れることができない日本に未来はない。破綻が誰の目にも見えるようになるまで、間違った政策が墨守される。政策転換が遅れれば遅れるほど、転換の代価が大きくなるから、政策転換はますます難しくなる。だから、間違った政策でも簡単に転換できない。惰性的な政策維持は人間社会の常である。そして、破綻した政策を擁護するために、ますます単純化された荒唐無稽な主張が展開される。いつの時代にも、思慮に欠ける政治家の放言を許し、それに拍手喝さいを送る国民がいる。自らの首を絞める愚行だ。
                    「ブダペスト通信」2023年6月26日

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〔study1263:230704〕