暴論珍説メモ(148)
天皇が「生前退位」を望んでいる、という報道を最初に目にした時の感想は「この人は偉いな」というものだった。ほとんど同世代の一員だから分かる、と言っては不遜に過ぎるかも知れないが、自分の高齢を理由にその職位や立場から自ら身を引くというのは、出来そうでいてなかなか出来ることではない。まして、だれもそろそろおやめくださいなどとは言っていないにも関わらず、である。
天皇の公務という仕事が肉体的にどれほどの負担を伴うものなのかは想像がつかないが、
8日のビデオメッセージで天皇は「次第に進む身体の衰えを考慮する時、全身全霊をもって象徴の務めを果たしていくことが、難しくなるのではないかと案じています」と言われた。世の老人たちの多くが本音では、「まだまだ俺は(私は)なんでもできるのに、周りが寄ってたかって年寄り扱いする!」と不満を嵩じさせているのに比べて、なんとまあ潔いことか。
しかもこの「お気持ち」には「天皇という立場上、現行の皇室制度に具体的に触れることは控えながら、私が個人として、これまでに考えてきたことを話したいと思います」という前置きがついていた。これにはびっくりした。天皇本人が皇室制度のことを話すにあたっても「国政」について発言したと受け取られないようにしなければならないということに、だ。これについては後でまた触れるが、制約を押しての発言ということになる。
だから私は、「お気持ち」を直接聞いた国民はもろ手を挙げて「どうもご苦労様でした、ゆっくり余生をお過ごしください」と拍手とともに天皇の「生前退位」を受け入れるだろうし、事態はそのように進むと思った。
ところが報道を見ていると、そう簡単にはことは運ばないらしい。なぜか?
その理由は憲法第4条に「天皇はこの憲法の定める国事に関する行為のみを行い、国政に関する機能を有しない」とあり、その前の第2条に「皇位は世襲のものであって、国会の議決した皇室典範の定めるところにより、これを継承する」とあるから、かってに自分で退位することはできないということのようである。
では皇室典範にはどう書かれているか。第4条に「天皇が崩じたときは、皇嗣が、直ちに即位する」とあるだけで、それ以外の形での皇位の継承は書かれていない。つまり、「崩じる」以外、天皇はやめようがないということなのだ。
皇室典範がそう決めたころはそれで不自然でなかったかもしれない。しかし、高齢化が進んだ現代では、この規定は不合理である。現代の医療では病を得て意識を失ってからも長期間生存するという例はいくらもある。だったらこの機会に皇室典範を天皇の「お気持ち」を実現できる適当な形に変えればいい。
簡単な問題だと私は考えている。
ところが、見ていると、法律の規定もさることながら、ことを簡単に運びたくないという空気がなんとなく国会とか内閣とかの世界を覆っているようなのである。
報道によれば、「お気持ち」の公表を受けて、政府は「有識者会議」なるものを設置して、検討作業を本格化する方針を固めた、という。なにを大げさな、という感じを否めないが、その「検討」にしても「結論をいそぐべきではない」という声が強いそうだし、また天皇の「お気持ち」を受けてすぐ有識者会議を設置するのは、天皇の発言が政治の動きに直結したような印象を与えるので、しばらく間を置いたほうがいいという議論さえあるという。
これは「お気持ち」の前置がふれている「具体的に触れることを控える」こととつながる。
さらには自民党・高村副総裁は「象徴天皇制がいかにあるべきかの制度設計の作業をしなければいけなくなるかもしれない」と発言したという(『日経』8月9日電子版)。象徴天皇制にはすでに70年近い実績がある。その間、その「制度設計」(意味がよくわからないが)を含めて、象徴天皇制が有識者会議で検討しなければならないほどの問題になったことがあっただろうか、私は寡聞にして記憶がない。
とにかく、ことを急がないというムードが感じられる。なぜだろう?解せない。しいて言えば、天皇制というものはとにかく一点一画といえども簡単には動かせない神聖至高なものとして祭りあげておかなければならない、それは人権とか合理性とかを超越した特別なものであるという意識がこの国にはまだ残っているということではないだろうか。
天皇は憲法によって「日本国民統合の象徴」とされているのであるから、日本国民の1人であるはずである。国民には職業選択の自由がある。もうやめたいという人間をやめさせないという法律は憲法違反ではないのか。
また天皇は「国政に関する機能を有しない」のであるから、「天皇の公務」は国政に関するものではないはずである。その国政に関しない「公務」を務める人間を代えることについて本人が発言することや、その発言が議論をよぶきっかけになったとしても、それがなぜ「国政」に関わることになるのか。
要するにあらゆるものを超越する存在が天皇であり、皇室であるという前提に立たなければ、今の議論は理解できない。その前提こそが戦前の日本を縛り、天皇自身をも縛っていたのではなかったか。
昭和20年の敗戦後、昭和天皇は「人間宣言」を発して明治時代の「大日本帝国憲法」の呪縛から自らを解き放った。その後の現行「日本国憲法」は天皇制の在り方を大きく変えたはずなのだが、それを扱う人間たちの頭の中にはまだ昔の前提が残っていることがはっきりした。
とすれば、今回の「お気持ち」は平成天皇の「人間宣言」と受け取るべきではないか。
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