始まった?習近平の文化大革命(1) ―呪文は得体の知れない「共同富裕」

 中国共産党は今年結成100周年を迎え、7月1日に北京の天安門広場では盛大な記念式典が開かれた。人民服姿で登場した習近平総書記が、近年、米を中心とする西側諸国から、中国の香港、新疆、台湾に対する強権的、反民主的政策が批判を浴びているのを強い姿勢ではねつける演説を行ったことは記憶に新しい。
 この演説そのものは予想された内容であり、習近平にとって正念場である来年秋の第20回党大会での総書記三選へ向けての景気づけと受け取られた。そして具体的な三選戦略は秋の党中央委員会(第19期6中全会)あたりからその姿が見えてくるのではないか、というのが大方の予測であった。
 ところが、そんな予測を嗤うように、このところ中国社会がなんだか急にざわついて来た。なにが起こるのか、まだはっきりとは見えないのだが、大嵐の前触れとしか思えないあやしい雰囲気なのだ。したがって、起きていることの解説とまではいかないが、ただよう妙な雰囲気くらいはお伝えできると思うので、ここしばらくお付き合い願いたい。
 現状の発端として挙げられるのは、先月(8月)17日の中国共産党中央政治局財経(財政経済)委員会である。べつにどうということのない名前だが、中国の場合「中央」という字がつくと、「党中央」つまり最高指導部、中央政治局常務委員会を指すことが多い。そのメンバーはざっと1億人いる共産党員のトップに君臨する7人(現在)である。
 そんな大事な会議なのに、この日は7人のうち2人が欠席で出席者は5人だった。総書記の習近平以下、首相の李克強、全国政協会議主席の汪洋、中央書記処書記(イデオロギー担当)の汪沪(コ)寧,筆頭副首相の韓正の5人で、全人代常務委員長の栗戦書、中央規律検査委員会書記(腐敗摘発担当)の張楽際の2人が欠席した。その欠席理由は公表されなかった(と思う)が、この2人は7人の内でも習近平にとりわけ近い人物である。もっともこの日の欠席に特別意味があったとは今のところ思えないが。
 さてその委員会の議題は「共同富裕(ともに豊かになる)を促進する問題」と「重大な金融危機を防ぐための研究」の2つであったが、目新しい「共同富裕」についての新華社の記事のリードを引用する― 
 「習近平総書記は席上、重要発言をおこない、次のように強調した。共同富裕は社会主義の本質的要求であり、中国式現代化の重要な特徴である。人民中心の発展の思想として堅持し、質の高い発展において共同富裕を促進しなければならない」。
 では、どのようにして共同富裕を実現しようというのか。挙げられている方策は国民所得の分配を二次、三次と調整することで税収、社会保険の収入を増大すべく制度的調整を行い、中所得層の比重を大きくし、低所得層の収入を増やし、高所得を合理的に調節する、というのである。
 国民がともに豊かになれればそれにこしたことはないはずで、なにを今さら力を入れるのか、と思われるかも知れないが、「共同富裕」という言葉には、これまでの改革開放政策の経過の中で一つの歴史的意味をもっているので、まずそれを紹介しておく。
 中国では建国から10数年が経過した1060年代半ばから「文化大革命」と呼ばれる大きな政治運動が全国を席巻したことをご記憶の方は多いだろう。今から振り返れば、この運動はそれに先立つ50年代末、急速に農業の集団化を進めたために、農民の勤労意欲が失われ、飢饉が続いた責任を取って、党と国家の主席を兼ねていた毛沢東が国家主席の座を劉少奇に譲ったのだが、権力を削がれた毛沢東がそれを奪回するために劉少奇、鄧小平らに仕掛けた闘争であった。
 この闘いはほぼ10年続いたのだが、そこで強調されたのは共産主義を先取りするような徹底的な平等主義であった。しかし、それもうまくゆかず、毛沢東は失意のうちに1976年に死去する。その後、政治の主導権を握ったのが、毛沢東時代、地方に飛ばされていた鄧小平であった。そして毛沢東とは正反対の改革・開放路線が実施された。農村では農民の個人経営が復活し、工商業には外国資本の導入が解禁され、個人経営、私的経営の商売も認められた。
 しかし、平等の徹底を無条件の善としてきた毛沢東の時代とは正反対の方針だから、抵抗感もあれば、後ろめたさのようなものも社会には残っていた。そこで鄧小平が言ったのが、次の言葉であるー
 「社会主義の目的は全国人民の共同富裕である。両極分化ではない。農村でも都市でも、一部の人間が先に豊かになることを認めよう。そして先に豊かになったものが、あとから来る者を引き上げるのだ。これが外の世界でも皆が認めるところの先富後冨論だ」
 誰かが豊かになったとして、次に社会が連想するのが「両極分化」では、「打倒」の対象になりかねない。その点、「共同富裕」への先行者として豊かになるのなら、後ろめたさを感じないですむ。政治スローガンとして「共同富裕」にはそういう効果がある。日本では1960年、あの安保闘争のあと成立した池田勇人内閣が「所得倍増論」を唱えたのにやや似ている。
 その「共同富裕」を習近平が今、持ち出したのはなぜか。習近平は去年で終わった第13次5か年計画では1人当たりGDPを2010年の2倍にして、「小康社会」を実現すること、それと同時に約1億人残っているとされていた最貧困層をそこから脱出させることを目標に掲げてきた。そしてそれらは昨年をもってめでたく達成となった。そこで今年からは、目標を建国100年の2049年までに「社会主義現代化強国」を実現する新段階に入ることに設定し、その現代化強国の中身として掲げたのが「共同富裕」というわけである。
 それでは「共同富裕」の目標数字はいくらか、そしてその達成方法は?となると、先に引用した記事では明らかでない。ただ「両極分化」の是正などというよりはるかに穏健な言葉だから、説明にも革命的、戦闘的用語は使われず、逆に「殺冨済貧」(富者を殺して貧者を助ける)はしないという点がしばしば強調されていることが目に付く。
 引用した記事を素直に読む限りでは、所得の再分配、再再分配とあるから所得税法など既存の法律を活用し、さらには金持ち優遇と言われながらも、これまでは当局は一向に腰を上げなかった不動産税や相続税をいよいよ新設(!)するか、などに注目しよう。
 と思っていた矢先、急に雲行きが妙になってきた。大企業がにわかに巨額の寄付金を政府に差し出したり、そうかと思えば有名芸能人が突如、脱税で摘発されたり、別の有名芸能人は過去の出演作品が市場から消えたり、はたまた急に子供の勉強負担を軽くせよと塾への規制を強めたり、宿題の量を制限したりと、なんだか闇夜に刀を振り回すような、なにを目指しているのか分からない動きを政府が始めたのである。
 最初に触れたように、習近平は来年秋の共産党大会、さらにその翌春の全国人民代表大会で党総書記、国家主席への留任を実現することが現在、唯一かつ最大の課題だから、それと関連しないはずはないのだが、今のところ目論見の筋道が見えない。
 じつはあの文化大革命も初めはなにがなんだか分からなかったのである。急に路上で女性の靴の踵の高さを計って、「ブルジョア的かどうか」を判定するなどということが実際にあった。まさかあのような「革命」が始まるとは思えないが、なにかおかしなエネルギーがうごめき始めたような気がする。
 勿論、私の思い違いということもありうるが、しばらくは五感を精一杯働かせて、あの国を見つめていようと思う。(以下次回)

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