子供が面白ければ大人も面白い

――八ヶ岳山麓から(443)――

 チベット文学の専門家星泉先生から、ご自身翻訳の『しかばねの物語』(のら書店 2023・09)をいただいた。 『しかばねの物語』というから、死体について何かを語るのかと思ったら、死体が面白い話をするというチベットの民話本であった。

 星先生によると、この民話はもとは、日本語にも翻訳されているインドの物語『屍鬼二十五話――インド伝奇集』(ソーマデーヴァ著、上村勝彦訳 平凡社)である。これがいまから1000年くらい前にチベットに伝わったという。
 星先生によると、翻訳の底本の底本は、もともと北京で保存されていた15話からなる木版印刷のチベット語『しかばね物語』とのことである。これが複雑な経緯をたどって、1963年にチベット東北地方の口語(アムド方言)で出版された。
 10年間つづいた文化大革命の混乱が終って、ようやく出版界も落ち着いた1980年ころからこの本も青海人民出版社によって再版され、版を重ね漫画本も出たという。星先生翻訳本はこの青海版を底本としているとのことである。
 

 右はチベット語『しかばねの物語』(1994版)、左は漢訳「説不完的故事」(万瑪才譲訳)、いずれも青海人民出版社

 さて、話の発端はこうだ。
 デチュー・サンボという男が、悪い魔法使い七兄弟に追い詰められて、ぎゃくに竜樹菩薩のまえで彼らを殺すはめになる。竜樹(サンスクリット語ではナーガールジュナ)はインドの実在の高僧であるが、チベットでは菩薩になっている。
 デチュー・サンボの殺人を見た竜樹菩薩は彼に罪を償わせるために、墓場へ行って「しかばね」を担いで来なさい、その「しかばね」は人々に幸せをもたらすから。だが、道中一言も口をきいてはいけない、話をすると「しかばね」はあっというまに墓場に戻ってしまうという。
 インドの話では、「しかばね」を運ぶのは勇気ある王であるが、チベットでは若い知恵のある男である。話すのは、インドでは「しかばね」にとりついた屍鬼(ヴェーターラ)であるが、チベットでは死体そのものである。

 ところが、デチュー・サンボが墓場で背負った「しかばね」はおしゃべりで、たいへん面白い話をする。彼は思わず「どうして?それから?」と聞いてしまう。すると背中の「しかばね」は空を飛んで元の墓場にもどってしまう。デチュー・サンボは墓場にもどって死体を担ぎ出す。ところが、また死体は面白い話を始め、デチュー・サンボはまた口を滑らせる・・・・・・・、という組み立ての物語である。
 星先生によると、このように登場人物がつぎつぎ物語を語るという入れ子形式の話は「枠物語」といい、これがアジア各地に広がった。「アラビアン・ナイト」もその一つだという。

 わたしがチベット人地域の学校で仕事をしていたとき、学生の中に母語の知識が失われるという危機感をもって、チベット語児童書の必要性を説くものがいた。当時から地方の小さな町でも幼稚園や小学校では漢語による教育が拡大していたためであろう。それで、わたしは学生たちに子供のためのチベット語の読物があるか聞いてみた。たいていの学生は、「漢語の本はあるがチベット語のものはない」と答えた。

 このたび、星先生訳を読んで、あらためてかつての学生たちに『しかばねの物語』について問い合わせたところ、「おばあちゃんが悪いことをしてはだめだよと言いながら話してくれた」とか、「話は知ってはいたが、『しかばねの物語』だとは思わなかった」といった答えが返ってきた。これで『しかばねの物語』は――20数篇あるなかの一篇であっても――チベット人地域では知られ愛された物語であることがわかった。
 学生のなかに、1994年に青海人民出版社が出版した『しかばねの物語』を読んだとのことで、上記の写真を送ってくれたものがいた。
 
 インドにルーツがあるとはいえ、チベット化した『しかばねの物語』には農牧民の生活があれこれと出て来る。勇気ある少年や美しい娘、貧しい青年、金持ちの泥棒、魔法使いといった主人公が奇想天外の活躍をする話が収められている。子供にとって面白い話は、大人が読んでも面白い。本欄の読者の皆さん、『しかばねの物語』をぜひ手に取って読んでください。                                      (2023・09・23)
 
初出 :「リベラル21」より許可を得て転載http://lib21.blog96.fc2.com/

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
〔culture1227:230928〕