専制主義といわれようと民主主義だ

――八ヶ岳山麓から(384)――

 天安門事件(六四学生運動)のちょうど1年前、1988年末にときの中国共産党総書記趙紫陽は、「民主主義はあと10年待ってほしい」といった。当時中国では、「開発独裁」論議が盛んであったから、わたしは趙紫陽の真意を知らず、普通選挙をかわして「開発独裁」路線を歩むためにこのような発言をしたと思い込んだ。
 翌年あの「民主化」デモが起きた。学生らは「民主(主義)」と「打倒官倒爺」を叫んだ。「倒爺」は悪質ブローカーのことで、「官倒爺」は、公共財産と利権を私物化し、金儲けの種にする中高級官僚を指していた。デモには私が勤めていた中学高校の生徒までも参加した。
 「民主」の内容をデモの学生らに聞くと「民主とは人民が主人公で、君主は国王が主人公という意味だ」とのことであった。わたしは普通選挙とか、言論の自由といった参政権や自由権を要求しているとばかり思っていたから、実に意外だった。
 いうまでもなく、「人民が主人公だ」といっているだけでは、「人民の要求と利益を代表しているのは共産党だ。だから共産党の一党支配は民主主義だ」となる。「『倒爺』の役人はみな共産党員だが、共産党には反対しないのか」と聞くと、学生らは「ぼくらは打倒共産党ではない。役人のやり方を改めろといっているだけだ」といった。
 わたしが接した学生の意識は、(すべてとはいわないが)このようなものであった。
 もちろん劉暁波の「零八憲章」に通じる、いわゆる「ブルジョア民主主義」の考えの人もいた。ある生徒の親は、「内緒だがね」と念を押してから、「中国革命は、実は農民革命だった。だから普通選挙も議会制もないのだ。民主がないから役人の汚職が起きるのだ」といって、わたしを感動させた。

 あれから今日まで、中国共産党はあの学生らとほとんど同じ論理で、軍権・行政権はもちろん、司法(法院=裁判所)も、立法(人民代表大会)も、共産党が指導する体制を「民主(主義)」だとしてきた。
 たとえば、最近でもこんなやりとりがあった。
 この3月、全国政治協商会議(政協)の記者会見で、ある記者が「米国による民主主義サミットの開催を前に、中国は『中国の民主白書』を発表し、中国が実行しているのが『全過程にわたる人民民主』であることを強調した。中国と米国は民主主義をめぐり発言力を争っているとの見方がある。人民民主の推進において、政協はどのような役割を果たしてきたか」と質問した。
 これに対する郭衛民報道官の答えは、「民主の形は多様であり、少数の国の専売特許ではないということを指摘したい。各国の民主制度は、その国の国民が自らの国情に基づき自主的に選択すべきであり、適したものが最良の制度だと言える」というものだった(「人民日報日本語版」ネット、2022・03・04)。
 このやりとりから、「アメリカにはアメリカの民主主義があり、中国には中国の民主主義がある」と主張していることがわかる。

 ところが、中国最大の検索エンジン「百度」は、「民主とは、人民が誰でも持っている、国家と社会の『事務管理』あるいは国家の大事に対して自由に意見を発表する権利である」と定義している。
 「その過程は人々の意見を聞き取ることであり、その目的は最大公約数を求め、大多数の意見をもって公共の利益とすることである。しかも最大公約数を求めたら、少数は多数に従い、自分勝手なことはやらない。そのようにして、この制度が最大の機能を発揮できる」という。
 また「民主主義」については、「古代ギリシャ都市のアテネのような小国家では直接民主があったが現代国家では、それを実行するような自然地理環境と社会経済文化要素などの客観的条件はない。だから現代社会で主要なのは、間接的民主主義すなわち代議制民主主義を実行することである。選挙民は、選挙の過程を通して自己の権力を自己の利益と意志の代理人に授与し、彼らによって自己の権力を行使するという(以下略)。
 だが、「国家の大事」に「自由に意見を発表する権利」など行使しようものなら、最悪の場合、拘束され長期刑に服さなければならない。また代議制といっても、さきに本ブログで田畑光永氏が引用した王力雄の主張のようではない(2022.06.29)。
 国民の選挙権は県レベルまでである。つまり、中央―省・市・自治区―(地区・州)―県(市)―郷―村という機構のうち、県長や県人民代表大会の代表の選挙ができるだけである。これから上は、県代表大会は省代表を選び、省代表大会は全国代表大会の代表を選ぶという間接選挙である。しかもその候補者は中共の推薦名簿によるもので、自主的な候補者は排除され、被選挙権は存在しない。
 「百度」の発言権や代議制についての説明は、早晩書き換えられるだろう。

 4月13日、人民日報の国際版「環球時報」は、「西側はウクライナ戦争から『民主への自信』を獲得することはできない」という論文を掲載した(2022・04・13)。著者は呉波、中国社会科学院研究員だから、政府ブレーンの一人である。要約すると以下のようになる。
 1)1989年フランシス・フクヤマは『歴史の終り』で民主主義の最終的勝利を歌った。だが、(トランプ元大統領などの登場を背景に)今年初め、彼はニューヨークタイムスに論文を発表して、良好な「民主主義」実践モデルの樹立という面では、アメリカはすでに信用を失ったと強調した。
 2)フクヤマだけでなく、他の欧米学者のなかにも、「過去数年、『専制統治』が優勢を占め、グローバルな発展を勝ちとり、民主主義は引き続き衰弱しているかのごとくである」と指摘しているものがある。
 3)ところが、ウクライナ戦争の進展を通して、(欧米では)いわゆる「専制」制度に対する一連の批判が展開され、西側に久しぶりに「民主主義への自信」が息を吹き返した。
 4)現在までのところ、欧米の「権威主義」の弱点に関する分析にはいささかも新しいところはない。それは「政策はしばしば封鎖的な範囲で生まれる」「秩序(維持)のために自由を制限する」とか、「荒唐無稽の民族主義は、人々を能力の限界をはるかにこえた野心の追求へと導く」といったもので、基本的にはみな観念先行の結論である。
 5)しかも欧米側の専制主義と権威主義を批判する文章のほとんどがロシア(批判)から入手したもので、これを例外なしに中国に当てはめて分析している。いわゆる民主主義の問題で中国に打撃を与えようとしているのである。
 6)21世紀の世界の歴史の決定的な衝突は依然社会主義と資本主義の闘争である。資本主義は歴史の終りなどではなく、歴史に終わらせられるのであり、この必然的趨勢は以後一層明らかになるであろう。

 そして、最近のある評論は、民主主義のモデルとされたアメリカで、トランプ現象があり、議会に暴徒が乱入し、妊娠中絶を最高裁判所が否定し、銃規制を違憲とし、世論を二分したではないかと指摘する(朱鋒 「西側『中心主義』は自ら退場するはずはない」 環球時報 2022・06・28)。西側民主主義などたいしたことはないというわけだ。

 このように、中共のイデオローグたちは、中国には中国の民主主義がある、それが専制主義とか権威主義とかと呼ばれようとも、自分たちのやりかたが民主主義であり、また社会主義であるという。そして自信にみちて社会主義すなわち中国型民主主義の歴史的勝利を預言するのである。
(2022・07・05)

初出 :「リベラル21」より許可を得て転載http://lib21.blog96.fc2.com/

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