あらすじ
北島章は弱視障害者、彼は努力してマッサージ師になった。やがて引き抜かれ、木更津に行き、別嬪の妻との間に男の子を授かる。さらに奮起し、夜間高校に通い卒業後、鍼灸師を目指し、夢は独立開業であった。何とか高校を卒業した矢先、妻の不倫現場に遭遇し、目撃してしまう。
【やっさいもっさい】
1「木更津甚句」
「やい、おめぇどこ見ているんだよ!気持ちわりーからこっちを向くなよ。」
子どもとは時として残酷な生き物である。けして容赦などという手段は持ち合わせない。そんな時は「逃げるが勝ち」と母親から教わったことを思い出した。逃げ出そうと慌てたので一,二歩で転ぶ。何もしていないのに靴で顔を踏みつるといった始末だ。
北島章は小学校も中学校も盲学校には進まず、普通の健常な子ども達の中で育ってきた。いじめもさんざんされた。章の眼球は常に小刻みに運動し、静止できずにいる。それをネタによくからかわれた。
章にとってこの程度の話はよくある。だからということではないのだが、自分でも不思議なくらい、悔しいという感情が湧いて来ないのだ。むしろ、それをどこか楽しんでいるかのようにさえ、感じとっている自分が存在している。言わば、映画の一場面を見ているだけでは済まず、自分が主人公になって演じている真最中なのである。このなんとも不思議な心持が無意識に動き出す。そして彼の人生のある一場面だけ切り取るのだった。ある意味特異な現象なのかも知れえない。これは生まれ持ったものであるのか、彼が障がいを背負って生きるために培ったものであるのかは、本人を含め誰も解らない。ただ、彼がこれによってずいぶんと助かっていることは間違いなく事実だ。
半面、彼の両親、取分け、父親はそんな彼を見る度、悔しそうな表情を見せた。息子がいじめられている現場に遭遇すると、必ず気付かぬふりをして、その場を立ち去るのだ。章は無言で立ち去る父の背中を見送る度、息子として申し訳なく思うのだった。自分には逃げ道があるのに親にはないのである。
章は東京墨田区で育った。中学を卒業すると直ぐに小さな印刷会社に就職した。昭和30年代当時、中学卒は金の卵ともてはやされており、仕事はいくらでもあった。章は何のためらいもなく、ここで働きながら夜学に通い、マッサージ師の資格を取った。やがて、浅草の浅草寺にほど近い病院でマッサージ師として勤務するようになった。
そんなある時、彼に一本の電話がかかった。以前、同じ病院に勤務していた内科医金澤からである。彼は千葉県の木更津の病院に勤務していた。
「もしもし、章君。金澤です。君と会ってねぇ、話したいことがあるんだ。」
そういう金澤に、章は電話では話せないのか?と疑問を感じながらも、もう二年程会っていない金澤にも会いたくなった。
「はい、分かりました。私はいつでも構いませんので先生に合わせます。」
と応えると、金澤は土曜日の夜7時に錦糸町駅の改札口を待ち合わせ場所に指定すると電話を切った。
金澤の言う通りに錦糸町駅に行き、改札を抜けようとコートの右のポケットから切符を取り出した。その時。改札の外から
「章君!」
と聞き覚えのある声がする。声の聞こえる方向に目を向けるのだが、人ごみで分からない。元より目の達者な方ではない。改札の駅員に切符を預け声のした方向へと二、三歩進むと白っぽいコートの右袖が大きく振られているのがハッキリと目にとまった。
「どうも、先生こんばんは。」
「やぁ、久しぶりだねぇ!元気そうで良かった。立ち話もなんだから、何処か店に入ろうかねぇ。」
二人はとぼとぼと歩きだした。駅の前の大きなバスの停留所を右に見ながら進むと左に路地があった。その路地を折ると、そこには赤ちょうちんが軒を連ねてあった。二人は適当に店に入った。間口が狭く、奥に細長いカウンター席に沿って丸椅子が並んでいた。他の客が二人、一番奥にいるので、真ん中程の席に陣取った。椅子に腰を掛け、見渡すと後ろの壁に紙に書いた手書きのメニューが張ってある。金澤は店主に
「まず、ビールを」
「はい。」
店主がお通しとビールを出して来た頃、話は始まった。
「実は今度うちの病院でリハビリテーション科を設けることになった。けれど、人材がいないんだよ。そこで章君を思い出してねぇ。どうだろう。考えてくれないか?医院長から預かってきた。この条件でお願いしたい。」
と言いながら、茶封筒を1つ手渡した。封筒には口が閉められていない。中に入っている書類を取り出して見る。初任給174900円と言う活字が撃ってある。詳細な明細が続き、最後に手書きで、(なお、住居については病院で用意します)と書かれている。
章にとって初めての引き抜きだった。気持ちは嬉しいが不安もあった。
「先生、お気持ちは嬉しいのですが、私はマッサージ師の資格しかありませんが・・・・」
金澤はそんな章の言葉を想定していたように
「だから、理学療法士は目処あるのだが、掛け持ちでねぇ。君にはその補佐をやってもらいたいんだ。つまり、理学療法士が患者のケースに合わせ訓練計画を作成する。君はその訓練計画書に従って訓練を実行してくれればいいんだ。この返事は今すぐにというとこではない。今1月だから、2月末に私から電話するよ。いい返事を期待しているよ!」
と一通り話が済むと、もうこの話題に戻ることはなかった。ビールが二本、三本と空いていった。金澤は章に木更津の話を聞かせる。
「君は木更津という町を知らないと思うが、特に江戸時代には栄えた町だ。木更津船と書いて、きさらづぶねと言ってねぇ!この船を使って江戸に年貢を運んでいたらしい。陸上より海上を使った方が何かと都合がいいからねぇ!そうそう、木更津船は浮世絵にも描かれているんだよ。」
「先生はなんで木更津に?」
「私はねぇ。今の病院の院長に頼まれてねぇ!石城と言うんだが、彼は大学の先輩でどうしても手伝えと言われてねぇ。」
「そうでしたか!」
と言ううちに、金澤は店主にビール1本とおでんを二人前追加した。
「私も木更津に行った事なかったんだけど、行ってみて驚いたよ。町に活気があるんだぁ。ちょっと、不思議な町でねぇ!」
と言うと金澤は話を止め、おでんを口にした。章はその横顔を見ながら、その先を聞いて見たくなり
「と、言うのは?」
と合いの手を入れてみた。金澤はビールでおでんを流し込み、章に目を移すと薄い笑みを浮かべ、話を続けた。
「うん、これはちょっと不思議なんだが。東京、千葉、横浜など周囲の都市で事業に失敗したり、都会でうまくいかなくなった人間が流れてくるのが、何故か木更津と言う街らしい。これは、最近に限った話ではなく昔かそういう傾向らしい。だから、と言う事もないと思うのだが、ヤクザもいてねぇ・・・・。まぁ、あのくらいの街になれば不思議ではないがねぇ!」
そんな木更津の話は尽きる事がなかった。歌舞伎としても有名な【切られ与三】、その与三郎がお富の所に通ったと伝わる、酒場の与三郎通り。童謡【証城寺の狸囃子】で知られる証城寺。金玲塚で有名な太田山古墳。賑やかな、みまち通り商店街。それから、酔いもまわり始めたのか。金澤は小さな声で、ゆっくりと歌を歌い始めた。
「木更津、照るとも
東京は雲うれ
かわいいお方が
やっさいもっさい
やれこりゃどっこい
こりゃ、こうりゃ
日にやぁけーる。」
歌い終わると他の客人からも拍手が起こった。嬉しそうに笑顔で答える。きれいな声で上手だ。
「先生、歌も上手かったんですねぇ。」
「いやぁいやぁ。」
と言いながら、手を二回、三回と頭の上で振って見せた。
「この歌は木更津甚句と言う。今ではこの木更津甚句のやっさいもっさいと言う部分だけを繰り返しながら、練り歩くんだ。毎年8月14日はやっさいもっさいと言う祭の様な盆踊りだなぁ。」
金澤の木更津の話は、やっさいもっさいで終わった。すっかり、酔いもまわり、二人とも顔がほてり良い気持ちになっている。店内はいつの間にか、空席はなくなっている。辺りを見渡せば、厨房から立ちのぼる煙と客から吐き出されるタバコの煙が混在し霞んで見える程になっている。金澤は左腕に付けてある腕時計に目をやった。店に来てから、既に3時間近くなる。
「いかん、いかん、もうこんな時間だ。そろそろ引き上げるとしょう!」
と言うと財布から1万円札を抜き出すとそれを店主に渡した。
「楽しかったよ。ありがとう!釣りはいらんからね!今夜は久しぶりに、この人と会えたんで嬉しいんだ。」
と言いながら、隣の章を指さす。
「それは良かったです。ありがとうございます。」
にこにこしながら、深々とお辞儀をする店主に
「また、来るのでお願いしますね!」
そう言いがら二人は店を出た。外の暗くひんやりとした空気が心地よく感じられる中、来た道を駅に向かって引き返して行く。駅の改札を入ると、上りと下りホームに分かれるタイミングで章が言う。
「先生、どうも今日は、ありがとうございました。あのお話は、前向きに考えさせて頂きます。」
「うん、そうだね。時を見て私の方からまた電話をかけさせてもらうよ。返事はその時に聞かせてもらおう。いい返事を期待するよ。では、」
と言うと、金澤は右手で章の左の肩をトントンと叩き下りホームに向かって行った。金澤を見送り、しばらくはその場に立ちすくんでいたが、金澤の姿が分からなくなると我に返ったかのように上りホームを目指した。電車に乗り込み、浅草のアパートに帰る道すがら断片的に金澤の話が思い出される。そして、そのランダムに思い出される話に対して、あれやこれやと考えてしまう。
太田山と言う山は、大きい山なのだろうか?山に登ると景色が良いのだろうか?証城寺と言う寺は大きいのだろうか?古い寺なのだろうか?商店街にはどんな店が連なっているのだろうか?その物価はやすいのだろう?アパートはあるのだろうか?月の家賃はいくらくらいだろうか?
そこまで思考が及ぶと、自分の思いが既に傾いていることに気づく。そこに思い至った自分がおかしくて、車中、一人でにやにやとしてしまう。周りの人に気付かれたら、きっと、気持ち悪く思うに違いない。もう思うと、さらにおかしくなり、にやにやが止まらなくなってしまった。
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