5「裏切り」
章が卒業すると、章一は小学校に入学した。
章は卒業と同時に鍼灸師の養成学校に進学する予定であった。だが、章一の
「パパはいつも家にいないから、つまらない。」
と言う言葉が、彼の脳裏を掠める。だから、せめて一年間は何もせずに、家にいてやりたいと考えた。この一年間の充電期間を経て、いざ、鍼灸師へというのが彼の思いだった。
章一は毎日、嬉しくて仕方がない。夏休みになると、雅子は章一に学習塾や水泳教室に通わせた。
「まだ、章一は一年生なんだよ。そんなにやらせなくてもいいだろう。」
「もう、一年生なのよ。章一は千葉高から国立大学を狙うのよ。」
章はそれを聞くと、自分が中卒で苦しんでいたことが、雅子の思いに少なからず影響を与えているのだと感じ取った。だが、それだけではなかったと言うことが、この時章には知る由もない。
その年の夏も、連日猛暑で体力を消耗する日々である。章はいつもの様に軽めの朝食を済ませると、しばらくテレビのニュース番組を見てから出かけるのだった。
「行ってきます。」
「はい、行ってらっしゃい。」
「パパ、いってらっしゃい!」
砂利道に出ると窓から手を伸ばす章一とハイタッチを交わし、病院へ向かった。いつもより少し気合いを入れ、職務に就くと患者の数が少ないように思える。いつもであるなら、昼休みなどといった余裕などない。食事さえもいつできるのか、分からないのだ。だが、今日は余裕があり、昼休みも取れそうである。思った通り、午前中の患者は全て時間内に終わってしまった。すると、リハビリテーション科の看護婦長が
「先生、今日はこの後、午後の患者さんは一時半からです。二時間くらい空きますので、おうちにでもお帰りになって、奥様の手料理でもいかがでしょう。」
「そうだね。こんな時は、そうあるもんじゃないからそうするか!」
看護婦長の提案を受け入れ、家に昼飯を食べるため戻ることにした。脱いだ白衣をロッカーに納めると足早に外へ飛び出した。自動扉開くと熱風と真夏の白い直射日光が彼を襲った。門を出ると左、次の信号を左、50m進みまた左といつも変わらぬ道である。我が家へと続く砂利道もそうだ。蝉の声が夏を修飾している家の前に来ると彼の動きが止まる。
玄関は閉まっているが窓が半分開いている。中から明らかに艶めかしく喘ぐ声が聞こえる。恐る恐る窓からのぞき込む。この時彼の耳には蝉しぐれはなく、彼の肉体には真夏の暑さも感じ取れない。そして、その小刻みな不随運動の眼球に映し出された、男女が絡み合う様である。さらに、その片割れが雅子であると言うことも彼の目は認識した。雅子の白い太ももを裂き開き、その間にハマり込む男の背中に真鯉の彫り物が見て取れる。その男に見覚えがある。男の腋の下から僅かに覗く雅子の顔、その目が窓に向けられた。章の存在に気付き、目と目があった。次の瞬間、雅子は男の方に手を伸ばし、もう片方の手で後頭部を抱き寄せた。すると、さらに大きく
「あぁん!」
と喘いで見せる。雅子には章にこの場から立ち去って欲しいと言う思いと、男に章の存在に気付いて欲しくないと言う思いがあった。
その喘ぎに興奮したのか、たもで掬われ陸に上げられたように真鯉の尾は激しく動く。
その動きに耐え切れずに、さらに、艶めかしく声に上げる。この相乗効果が雅子の思惑通りに運ぶ。章は二歩後下がりをすると振り向き、小走りに砂利道を後にした。とにもかくにも、その場から立ち去ることだけを考えたからである。砂利道を抜けると蝉の喧しさと猛暑が彼を地獄から引き戻しにかかった。子供の頃に見た映画のワンシーンのような現象は、彼には見られなくなっていた。
その後、病院には戻ったのだが、誰とどんな会話をし、どんな仕事をしたのか、全く覚えていない。気が付けば、西口のみまち通り商店街のふじや食堂にいた。ここで、タンメンを食べ、与三郎通りの赤ちょうちんに行き酒を呷り時間をつぶした。足取り重く、家に帰ると雅子も章一も眠っている。ちゃぶ台には章の分の食事が置いてある。彼はそれには手を付けずに寝た。翌朝、章一が胡坐をかく章の背後に抱き着き
「ねぇパパ。今日の夜は銭湯に行こう。その後で花火もしたいから早く帰ってきて!」
「うん、分かったよ!約束だ。」
ハイタッチをして、家を出た。雅子とは無言のまま、重苦しい空気感が漂う。けれど、いつかは話さなければならない。そう思う。
その日の勤務を終え、家に戻ると誰もいない。部屋を見渡すとすっかり荷物は整理されてある。ちゃぶ台にポツンと封筒が置かれている。中を開けて見る。
「ごめんなさい。探さないでください。」
と書かれていた。さらに、もう一枚捺印された離婚届である。ふと何も無かった畳の上に茶色の紙袋を見つけた。中を見ると花火が二本入っていた。章はそれを見るなり、涙が溢れ出た。玄関先に出て花火に火をつける。
「章一見えるか?綺麗だろ!」
二本目に火を移す。
「これはパパとママの分だよね。」
と呟く。また涙がこぼれた。
翌日病院に辞職願いを出し、荷物をまとめた。荷物はリュックサック一つになった。全てが終わると夕方になった。最後に四年間通った木更津第二高等学校の門の前に立つ。学校は夏休みである。
木更津駅のホームに立ち電車を待つ彼の耳にやっさいもっさいの囃し立てる勇ましい声が聞こえてきた。今日は奇しくも8月14日だった。
「そうか、やっさいもっさいか。」
と一言呟くと電車に乗った。彼の行き先は誰も知らない。
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