――八ヶ岳山麓から(293)――
1949年10月1日、毛沢東は北京天安門楼上で、中華人民共和国の成立を宣言した。70年後のことし2019年10月1日、習近平国家主席はこれを記念して盛大なパレードを催した。
しかしモンゴル・ウイグル・カザフ・チベットなど、かつて独立国家であった記憶をもつ民族にとっては、この日は屈辱の記念日となっている。中共の傘下に入ることを余儀なくされたとき、彼らは民族国家の創設あるいは高度自治の獲得を期待したのだったが、いまはそれを口にするだけで国家分裂罪という重罪に問われる。
本稿では、中共建国の時点までに、少数民族と中国漢民族の間で、または少数民族の中で、何が起こっていたかを簡単にふりかえってみたい。
モンゴルでは
モンゴルでは、1924年に、ハルハ部族を主とする北部が、ソ連の援助の下、モンゴル人民共和国を成立させた。この国家はソ連崩壊後の今日も「モンゴル国」として独立を維持している。いわゆる外モンゴルである。
問題は南部(内モンゴル)である。
内モンゴルの「東部」は、1945年8月まで日本の傀儡国家満洲国に属した。同じく「西部」は、日本に頼って内モンゴルの独立を企てる徳王が支配した。だが徳王政権は、ソ連の対日戦参戦と日本の敗北とともにあっけなく崩壊した。
少し時代をまき戻すと内モンゴル「東部」では、すでに1925年に、民族の自決と社会主義を掲げる内蒙古人民革命党(=内人党)が(中共とは関係なく)結成されたが、親国民党か親共産党かで内部分裂し消滅した。一部メンバーは満洲国官僚になったりして雌伏していたが、45年8月、反日武装蜂起とともに、内外モンゴルの合併・独立をめざす活動をはじめた。
9月には「西部」でも、徳王政権の幹部であったボインダライらが「臨時政府」を結成、これも内モンゴル独立をめざす活動を開始した。
中共はこれらモンゴル民族主義者らの動きを警戒し、モンゴル人の中共党員ウランフ(雲沢)を内モンゴルに派遣して「臨時政府」工作にあたらせた。ウランフは首尾よくポインダライらを追放して実権を握るとともに、45年10月にはその主席に就任。その後内人党を解散・吸収し、47年4月にはウランホト(赤峰)に「内蒙古自治政府」を樹立した。中共の全国制覇に先んじること2年である。
結局外モンゴルと内モンゴルの統一も内モンゴル独立も実現することはなかったが、その理由は、外モンゴルを支配するソ連のスターリンにも、また毛沢東にもその意志がなかったことにある。複雑な情勢のなか、中共はたくみに内モンゴルのナショナリストを屈服させたのである。
新疆(東トルキスタン)で
1940年代、新疆(東トルキスタン)の支配者は軍閥盛世才であった。が、ここに国民党政府が軍と官僚を派遣すると、これを維持するための労役・物資提供の負担が住民に以前に増して重くのしかかるようになった。このため43年から44年にかけて、反盛世才・反国民党のスローガンを掲げて、クルジャをはじめ各地でウイグル・カザフなどチュルク系住民が蜂起した。これはイスラム的性格の強いものであったが、このなかでエフメッドジャンが率いるナショナリストと、親ソ派のグループが台頭した。中国ではこの蜂起を「三区革命」と呼んでいる。
エフメッドジャンらは蜂起勢力をまとめて、クルジャを制圧し、44年11月には「東トルキスタン人民共和国」樹立を宣言した。翌年彼らがウルムチに迫る勢いとなると、国民党省政府はソ連総領事に介入を求めた。ソ連はこれに応じて、軍事的に優位にあった蜂起側に国民党との妥協を強要。その結果、国民党代表張治中と「東トルキスタン」側代表エフメッドジャンとの間で「協定」が結ばれるに到った。
ウイグル民族ほか少数民族を閣僚とする省政府の樹立、漢語(中国語)と少数民族語の平等、集会結社の自由、民主的な県政府の選挙、経済改革などがその内容である。46年7月、張治中を主席とし、親ソ派のエフメッドジャンとボルハンの2人を副主席とする新疆省連合政府が成立した。
ところが47年になって、国民党は張治中が辞任すると新主席に親国民党派のマスード・サブリらを据えるなどしたので、「東トルキスタン共和国」のメンバーはこれに反発して、同年8月根拠地クルジャに引き上げ、省連合政府は瓦解した。
49年8月中共代表鄧力群はクルジャに入り、エフメッドジャンらに面会した。クルジャの革命幹部は中共からの呼びかけに応じて人民政治協商会議への参加に同意し、同年8月25日北京へ向かった。ところが彼らは全員、突如行方不明になった。公式には搭乗していたソ連機がバイカル湖付近で墜落したといわれるが、真相は不明である。
9月15日革命勢力の新しい代表になったサイフジンが北京に入り、中共への服従を表明し、49年12月、新疆に進攻した中共軍がクルジャなど根拠地に入り、東トルキスタン民族運動は完全に消滅した(王柯『東トルキスタン共和国研究』 東京大学出版会)。
これ以後、新疆の権力は、中共第一野戦軍第一兵団司令王震が握るようになり、過酷な支配が展開するところとなる。
チベットでは
チベットにはダライ・ラマを頂点とするチベット政府が存在したが、これはラサの3大寺院の高僧と200余の荘園貴族の連合政権であり、「政教一致政権」であった。その領域はほぼ現在の自治区の範囲にあたる。
ところがチベット人の半数を超える人口は、ラサ政府領域外の雲南・四川・甘粛・青海の各省に広がっている。これら地域は、伝統的には中国の歴代王朝の地方行政官である「土司」と、その地方の大寺院が支配していたが、清国末からは軍閥が伝統政権を圧倒し、二重支配の様相となっていた。
ダクダ活仏を首班とする政府閣僚は国際情勢にうとく、第二次世界大戦末期になっても連合国の勝利を信じなかった。一方、国民党政府はチベットをモンゴル元朝以来の中国の領土であるとみなし、長年チベットにかかわったイギリスも、戦後の中国との関係を配慮して「チベットの宗主国は中国である」という公式見解を改めなかった。したがって戦後処理の仕方によっては、ラサ政府は実権を失う危機的状況にあった。
案の定、中共は内戦勝利後、ラサ政府に対し中共への帰順と中共軍のラサ進駐を要求した。ラサ政府は恐慌状態となり、「中国とチベットは、従来檀家と菩提寺の関係であった。今後もそう願いたい」という時代外れの愚劣な回答をした。チベット政府崩壊の前兆である。
少数民族と中共
新疆のチュルク系民族主義者が宗教的政治的見解の如何を問わず、漢人支配者の排撃と独立をめざしたのは前述のとおりだが、内モンゴルの覇者ウランフも青年時代から独立の夢をもち、それを中共に託していた。彼は1947年3月には党中央に上申して、当面は自治区を成立させてもやむをえないが、やがては少数民族の独立と平等民主の中国連邦を作るべきだといった。
中共は47年10月すなわち建国宣言2年前の「解放軍宣言」において、「中国領内の少数民族の平等・自治、それに彼らが中国連邦に加入する自由を持つことを認め」ていた。これはソ連型の連邦構想であるが、コミンテルンに属する全世界の共産主義者の共通認識でもあった。チベット共産党のプンツォク・ワンギェル(プンワン)も、これゆえに中共を支持し、チベットの完全独立と連邦国家への加盟を期待したのであった。
ところが1949年、建国直前の中共が主導した人民政治協商会議においては、民族自決(つまり民族共和国の設立)ではなく、「民族の区域自治」をにわかに決議し、「共同綱領」に書き入れたのである。
中共中央は、建国宣言の直後にチベットを担当した第二野戦軍に対し、「民族政策は共同綱領にもとづいて貫徹せよ。少数民族の『自決権』に関しては、今日ふたたび強調してはならない」と指示した。それまで「独立」を宣伝したのは、内戦を有利に展開するためだったというのである。これは少数民族に対するペテンにほかならない。
なぜ連邦制から中共が直接支配する自治区制への政策転換が行われたかは明らかでない。しかし、これが毛沢東の固い意志であったことは確実である。(つづく)
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