少数民族にとって中国革命とは何だったか(4)

――八ヶ岳山麓から(296)――

チャムドへの進軍
1959年3月、チベットの王にしてチベット仏教最高位の僧ダライ・ラマはインドに亡命した。かくしてこの政教一致の国家は消えたが、その画期となったのはラサ政府の拠点チャムド(昌都)の陥落である。以下これについて概略を記したい。
時間を1949年まで戻します。

毛沢東は1949年の革命成功後、ラサに何回も使節を送って、チベットの中国への帰属を要求し、そのための和平談判を呼びかけた。だがチベット政府はいささか間抜けな回答をして、これを拒否したことはすでに述べた。翌1950年6月には金日成の北朝鮮軍が南に侵入し朝鮮戦争が勃発した。毛沢東は国際的な干渉を警戒してチベット制圧を急ぎ、主な任務を四川省の中共西南局に担わせた。
西南局すなわち第二野戦軍はラサ進撃のために十八軍を編成した。当時、十八軍の拠点である西康省(現四川省甘孜蔵族自治州)省都雅安からチャムドへは、4000メートルからの峠をいくつも越え、大河の峡谷を何回も渡らなければならない。道路は人と馬が通れるだけで、荷車すら通行できなかった。しかも国民党軍と軍閥の残党が西康各地で抵抗を続け、中共軍の進軍を妨げた。

東蔵民青の出現
ところが意外にも、ここにチベット人の武装集団があって、十八軍に有効な情報をもたらし、漢・チベット語の通訳と兵站とを担った。この組織は、プンワン(プンツォクワンギェル)に率いられた「パタン地下党」「東蔵民主青年同盟」だった(「東蔵」とはカムの意)。
プンワンは、1943年末ラサでチベットの完全な独立と民衆の解放を目的に「雪域共産党」を結成した人物だが、十八軍に出会ったときは、彼の党はすでにまるごと中共に参加していた。彼らは、中共によって無能なラサ政府を打倒し、民主的なチベット国を成立させ、中華連邦に加入する道を選んだのである。

チベット人地域3区分のひとつであるカムは、金沙江を境に西岸のラサ政府が支配するチャムド地区と、東岸の国民党政府が支配する西康省に分かれていた。ラサ政府にとってチャムドの町は東の重要拠点であったから、チャムド総督府長官には他地域よりも一段上のカロン(大臣)が当てられていた。
中共の要求があってから、ラサの貴族上層には主戦論が盛んだったが、いざとなるとチャムド総督を引受けて中共軍と戦おうとするものがいなかった。ラサ政府はやむを得ず、やや地位の低い地方貴族のガポ・アワンジグメを総督に任命した。
彼は1950年8月末、チャムドに赴任した。すると遺憾きわまりない光景に出くわした。彼はラサ政府への電報の中でこういっている。
「チャムドでは、わずか7,8の家でツァンパ(大麦の炒り粉、チベット人の主食のひとつ)を食っているだけで、多くはカブをかじって餓えをしのいでいる。乞食が群れを成しており、その有様はすさまじい。……さらにやりきれないのは、ラサから来た兵の軍紀がたるみ切っており、淫を好み民を煩わすことはなはだしい。高級官僚とデポン(連隊長)との間もうまくいっていない」

チャムド攻略
中共軍はチャムド包囲戦術をとった。チベット軍を逃がせば、ゲリラ戦に持ち込まれる危険を考えたからであろう。チベット軍は最初の激しい戦闘ののち、金沙江を渡河されるとたちまち150キロ余り後退した。アワンジグメは弾薬庫を爆破し西路を撤退しようとしたが、そこで捕まった。チベット軍は、死傷者と捕虜とで5700人余りを失った。
最新の武器も少なく鍛錬も十分でないうえに、あまり戦意のない司令官に率いられたチベット軍に勝ち目はなかった。チャムド戦役は中共軍の作戦通り10月6日に始まり24日には終わった。
こうも簡単に中共勝利に終わったのは、中共軍が国共内戦で鍛えられていたうえに、戦意も兵器もチベット軍よりは上だったからだが、それだけではない。金沙江東岸の住民が中共軍に協力的だったからである。それを組織したのはプンワンらの東蔵民青である。
金沙江東西両岸の住民はみなチベット人のカムパ(カムの人の意)である。中共軍にカムパのゲリラが襲い掛かっても不思議ではない。だが寺院や集落首長は、ダライ・ラマを崇拝しても、ラサ政府に味方する気持ちがまるでなかった。東岸だけでない。西岸のカムパもラサからやって来たチベット軍に対しては、強い反感を抱いていた。
かつて東岸は国民党軍閥劉文輝の支配下にあった。当時アヘンや銃の取引はもうかったから、軍閥政府の役人や「漢兵」は徴税のほか銃やアヘンの取引をやり、カムパから容赦なく搾り取った。
西岸のチャムド総督府の駐屯兵は、東岸の「漢兵」よりさらにひどかった。彼らは重税を取り立てるばかりか、農牧民の家畜や金品を強奪し、女をものすることに執着した。当時ラサの兵隊は「チャムドへ正月をやりに行く」といった。
ところがカムにやって来た中共軍は悪事を働かなかった。はじめのころはボロを着て、寄せ集めの武器を担いでいたが、人や家畜の徴用や買物のときは代価を支払った。時には刈り入れや雑用の手伝いをすることもあった。カムパはこの「新漢人」に警戒心を持ちながらも、おおむね好感をもった。
これゆえ東蔵民青は苦心しながらも、拠点ごとに中共軍を支援する体制を作り上げることができた。彼らは農牧民と数万頭のヤクや馬を動員して、中共軍の武器弾薬、食料を運んだ。

敗者と勝者
中共軍はチャムドを占領すると、総督府の権力を剥奪し、アワンジグメ以下高官を捕虜とし、兵は釈放した。中共軍にしてみれば、「政教一致の残酷な封建農奴社会」の悪の勢力を、正義の中共軍が打倒したのである。将校のなかには捕虜に対し囚人以下の過酷な扱いをするものもいた。戦勝祝賀会では、中共軍の領袖が舞台の一方に座り、他方に敗軍の将を座らせ、中共軍の将兵らが「打倒帝国主義」のスローガンを叫んで相手方を侮辱した。彼らは、ラサ政府こそ反人民・反動で米英帝国主義の手先だと教育されていた。
チャムド陥落の報がラサに届くと、政府と貴族、僧侶上層は激しく動揺した。ツンドゥ(議会)が開かれた。摂政ダクダ活仏らはダライ・ラマ亡命の準備と徹底抗戦を主張し、他のカロン(大臣)とラサ3大寺院は和平交渉に応じるべきだとした。
議論の果てに、歴代ダライ・ラマがやったように神意を聞くことになり、「神おろし」がダライ・ラマの仏殿に呼ばれた。神が憑依した「神おろし」は、15歳のダライ・ラマの足元にひれ伏して「このものを王位に就かしめよ」と告げた。権力に執着してきた摂政ダクダはようやく辞任した。

中共軍のラサ進駐
チベットと中国代表は北京で講和談判に入った。東蔵民青の指導者プンワンは通訳として、ラサ政府代表を説得する役回りを引受けさせられた。チベット側は戦場の敗北を交渉で取り戻すことはできなかった。すったもんだのあげく「17条和平協定」が成立した。
協定は、ラサ政府の現行制度をみとめ、民衆の信仰、風俗習慣は今まで通りとした。重要なのはチベットが中国の領土であることと、中共軍のチベット進駐を認めたことであった。中共軍がラサに進駐しだすと、貴族や政府高官のなかにはインドやアメリカに亡命するものがでた。
進駐した中共軍将兵はわがもの顔にふるまった。将官ですらチベット人を殴った。そのうえ大量の軍隊が一時に駐屯したために、ラサにはインフレと食糧不足が起きた。僧侶と民衆は中共軍を憎み、プンワンには「赤い軍隊をチベットに引き入れた赤いチベット人」という悪意をこめたあだ名が付けられた。
中共は権力機関として「チベット工作委員会」を置いた。プンワンは唯一のチベット人委員であった。ラサ政府は工作委員会とことごとに衝突したが、じょじょに実権を奪われ形骸化してゆく。

ゆめのおわり
すでに1949年、中共の少数民族政策は「民族自決」から「自治」に変わっていた。これをプンワンら東蔵民青が明確に知ったのは、1954年だったという。それまで彼らは、独立の夢がついえたことも、「危険分子」として中共から警戒されているのも知らずに、中共軍のラサ進撃に協力しながら独立の夢を語り、チベット共和国の中国連邦への参加を議論していた。
このため数年後にプンワンの同志の中には、独立を企む「地方民族主義者」として糾弾され、投獄、拷問、自殺の憂き目を見るものが生まれることになる。(つづく)

初出:「リベラル21」より許可を得て転載http://lib21.blog96.fc2.com/

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