――八ヶ岳山麓から(299)――
チベット人は現行の行政区分とは別に、チベット人地域を3区分する。ラサやシガツェを中心とする地域はウ・ザンである。カムは現在のチベット自治区のチャムド地区と四川省甘孜州、雲南省徳欽州、それに青海省の玉樹州を合わせた地域。アムドは青海省の玉樹州を除いた地域に甘粛省甘南州、四川省アバ州を合わせた地域である。カム人はカムパ、アムド人はアムドワという。以下にカムパのゲリラとアムドワに対する殺戮の概略を記す。
カムパの叛乱
1956年初め、甘孜州すなわち金沙江の東のカムパは、中共の「民主改革」に直面すると、かつて中共軍のラサ進軍のための第一の作戦すなわちチャムド戦役を支援した姿を一変させた。完全に友好的態度を捨て「民主改革」に激しく抵抗したのである。
牧野のリタン(理唐)僧院では、僧侶と牧民が「仏教擁護」を掲げて立てこもった。中共軍は、3月22日抵抗する寺院を包囲した。翌日チベット人副州長らが24時間以内に降伏するよう勧告するが、叛乱側はこれを拒絶。30日深夜に中共軍は砲弾数十発を打ち込み、寺院は瓦礫の山となり、叛乱側は死傷者多数を出し総崩れとなった。
こののち、中共軍による叛徒への報復があまりに残酷だったのを知った中共四川省委員会と成都軍区は、「いかなる報復も禁止する、破壊された部分を修復し、大衆を政治的に味方につけるよう工作をおこなえ」と善後措置を命令した。これによって尋問中の(おそらくは高級僧侶と集落首長ら)72人のほかは、捕虜1,263人が釈放されたという(『甘孜蔵族自治州民主改革史』)。
ダライ・ラマ十四世は、リタン僧院が破壊され多数の僧俗人民が殺されたことを知ると、ラサ駐留の中共書記張国華に激しく抗議した。張国華の回答から中共の論理がわかる。
「そのような批判は、チベット人民を保護し援助しようとする祖国への侮辱である。もし国民のあるものが改革を望まないならば、——改革は搾取をなくするがゆえに、民衆のためになるはずのものであるから―—彼らは処罰されるべきである」
私は21世紀初め2回リタン僧院を訪ねたが、多くの寺院が再建されるなか、ここはまだ瓦礫の山で、原状回復というにはほど遠かった。
56年5月までに、叛乱は甘孜州20県77区のうち、18県45区に拡大した。公式には甘孜州全体の叛乱参加者は1万6000人というが、叛乱を記録した記事を合計するとこの数字を超えてしまう。
叛乱が起きて1,2ヶ月の間に中共側の軍・官僚200人以上が殺され、100人余りが負傷した。また中共によって短期養成されチベット人「積極分子」100人余りが殺された。チャムド・リタン・バタン(巴塘)・ガンゼ(甘孜)の県城(県庁所在地)は軒並み叛徒に包囲され、一部地域では中共軍部隊が崩壊した。
56年7月になると、チャムド地区ジョムダ県で大規模な叛乱がおきた。このことは『ダライ・ラマ自伝』、中共『中共西蔵党史大事記』の双方に記録されている。大首長ジミゴンポが金沙江東岸のデゲ土司とその執事ウォマジランと結んで起こしたものだが、ウォマジランはそれ以前の4月にラサで開かれたチベット自治区準備委員会成立大会に参加していたから、このときに蜂起の腹を決めたと思われる。
カムパ・ゲリラ
叛乱は各地にほとんど同時に発生したから、各地中共部隊は駐留している県城を守るのが精いっぱいになった。中共中央は一時的に叛乱を鎮静化させるために、「民主改革」のテンポを緩め集団化に進むことなく、叛乱側と「和平協商」を進めるよう指示した。
だが、57年3月毛沢東は強硬路線に転じた。叛乱地域救援のため第二野戦軍の主力が投入された。こののち叛徒たちは県城攻撃からゲリラ戦に転じ、カム北部に「カム・チベット中央政府」を設立した。これが殲滅されると南部に「安日新康(意味不明)」政府を組織した。これは一時甘孜州南部6県を制圧したほどの力があった。
57年中に北部農耕地帯の叛乱を鎮圧した中共軍は、58年3月には南部の鎮圧に着手し、激烈な戦闘の末にこれを殲滅した。「安日新康」指導者ディヨン・アチョンは捕虜となり、抑留中に獄死した。
抵抗はダライ・ラマ亡命後も続いた。カムパ・ゲリラは一時は1万3000を数えたと伝えられる。59年11月からはアメリカCIAによってグアムで訓練されたゲリラが数回、落下傘降下した。だが戦局を変えることはできなかった。
1961年10月までに叛乱はほぼ鎮圧された。中共が投入した兵力は20万。2年間に犠牲1551人と負傷者1987人を出した。中共軍の寺院破壊と殺戮の方法は苛烈で、朝鮮戦争から帰還した部隊のなかには、長髪でチベット服と見ればかたっぱしから殺したところもあった。
59年3月から60年上半期までに、ダライ・ラマを追って10万余の難民がヒマラヤを越えた。ネパールの藩王国ムスタンを根拠地にしたゲリラは、カムパでなくても世に「カムパ・ゲリラ」と呼ばれ、中共軍の小部隊などを襲撃した。
だが、1971年アメリカは米中和解のため、ゲリラへの援助を中止した。ダライ・ラマもまたゲリラ集団に武力闘争をやめるよう説得した。ネパール軍に降伏したゲリラの子孫は、今もムスタンで牧畜生活を送っている。
ラサで起きたこと
以下の内容は主に『中国共産党西蔵党史』による。
1958年末からアムドやカムの多数のチベット人がラサへ逃げるようになった。ダライ・ラマの救済を求めた難民である。彼らを見て、200家族近い貴族も一般のラサ人も、明日のわが運命を思って戦慄しただろう。さらに59年正月のモンラム(大祈祷会)のために毎年の巡礼が集まった。中共軍とラサ政府のあいだに緊張が増した。
同年3月10日ダライ・ラマが解放軍駐屯地を訪問するというニュースが伝わると、ラサ民衆はダライ・ラマの安全を気遣ってノルブリンカ宮殿を取り囲み、駐屯地にいかせまいとし、親中共派カロン(大臣)を投石で殺した。
ラサ政府の独立宣言が出された。3月17日、騒然としたなか、ダライ・ラマとその取巻きはインドへ向かった。
毛沢東はカムとアムドの叛乱を見て、ラサ駐留軍に十分な準備をさせていた。寄集めのチベット軍は2日しかもたなかった。逃げそびれた貴族と将兵、チベット政府官僚、さらには僧侶も逮捕、投獄された。そして20年後、文化大革命が終わると、わずかの生き残りが釈放された。
中国では、ダライ・ラマ亡命は毛沢東がわざとインドに逃がすよう狙ったもので、ラサから国境タワンまでの逃亡ルートも偽装攻撃地点も詳細に指示したといわれる(許家屯『香港回収工作』)。しかし、これこそが作られた毛沢東神話である。地図もないのにそんなことができるはずはない。
青海の惨状
以下は煩雑だが、お許しいただきたい。
1953年の第一次センサスによれば、中国全体の人口は5億8796万であった。1963年の第二次センサスでは7億0499万になり、大躍進によって4000万ともいう餓死者が出たものの、10年間に1億1700万人が増加した。
チベット人全人口は53年センサスでは277万5000と推計された。63年には250万5000だったから10年間に27万人減少している。青海省のチベット人人口は、53年センサスでは49万3463人、64年には44万2664人となり、ここでも10年間にほぼ5万人が減少している。チベット人の叛乱鎮圧時と大躍進期の死者数は、10年間の自然増ではカバーしきれなかったのである。
青海省ゴロク(果洛)蔵族自治州では、1957年末の人口が7万3300人であった。58年末には5万1700人となって、1年間で2万1600人(30%)が減少した(邢海寧『果洛蔵族社会』)。大半は、叛乱鎮圧の際にモンゴル人部隊に殺されたか、あるいは彼らにテントや食料をうばわれて凍死・餓死した者たちである。
叛乱鎮圧の模様は、性比(女性を100としたときの男性人口)にはっきり現れている。1990年センサスの年齢別の性比は、65歳(1925年生れ)以上では、漢人103.2に対し、チベット人は54.9しかない。つまり叛乱が始まったころ、31歳以上だったチベット人男性は、女性の半分しか生存していないのである。叛乱が始まったとき、16歳以上だった階層をとっても同じ傾向が得られる(日本は2015年94.7)。
『叛乱鎮圧時のゆきすぎ問題に関する青海省から中央への報告書』(1981・5)によると、逮捕・拘留・集中訓練・死刑判決をうけたもののうち8万4566人を再審査したところ、7万8147人が冤罪と判定されたという。つまり90%強は無罪だったというのである。叛乱当時青海省のチベット人モンゴル人は51万強だから、人口の16%が逮捕拘留・死刑にされたことになる。(つづく)
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