暴論珍説メモ(127)
私は7月21日の本ブログに「安倍総理!『尖閣は日本領』は偶然の結果なのですぞ」という一文を書いた。そこで私は、第二次大戦後、尖閣諸島が国際的にどう扱われてきたかをたどり、結局、同諸島は1972年に琉球列島が米から日本に返還された時に一緒に日本に還って来たのであったが、それは中国の言うような日本の約束破りや強欲によるものではなく、いくつもの偶然が重なった結果であると述べた。
その最大のものは、カイロ宣言からポツダム宣言への流れを引き継ぐ形で1946年1月に連合軍最高司令部訓令(SCAPIN)677号によって、尖閣諸島も南西諸島の一部として日本の主権から切り離され、連合軍の施政下に置かれたにもかかわらず、時の中国政権(国民党の中華民国政府)は東北4省(満洲)と台湾・澎湖諸島の返還を受けただけで、尖閣諸島(彼らの「釣魚台」)にはまったく関心を示さず、以後、尖閣諸島が琉球列島と同列に扱われるのをそのままに放置したことだ。
その偶然は中華民国政府のあの島々に対する無関心、不注意によるが、それは同政権が中国共産党との内戦に敗れて、尖閣諸島と目と鼻の先の台湾に移った後も変わらず、1952年の日華平和条約の第2条(領土条項)でもあの島々は無視された。
その後、1960年代末にいたって国連のアジア極東委員会(ECAFE)の調査によって、あの海域の地層に石油の存在が予想されるにいたり、流石に中華民国政府も、また1949年に北京に成立した中華人民共和国政府も、あの島々の存在に気付く。また在外中国人の間からは「釣魚台を守れ」の声が上がり、米紙『ニューヨーク・タイムズ』にはその意見広告が掲載された(71年5月)。
この時期はまた日本国内で沖縄返還を求める運動が高まり、それに背中を押される形で佐藤栄作首相は69年11月、ニクソン米大統領との会談で72年中の沖縄返還の約束を取り付ける。そして両国政府間で沖縄返還協定締結のための協議が進められた。
この2つの流れの中で、尖閣諸島がすんなり琉球列島とともに日本への「返還」の対象となったのは、今、振り返ればむしろ不思議である。そこにはどんな経緯があったのか。
最近、この間の事情を扱った本が2冊、ほぼ同時に出版された。1冊は矢吹晋『尖閣衝突は沖縄返還に始まる』(花伝社)、もう1冊は遠藤誉『完全解読「中国外交戦略」の狙い』(WAC)である。この2冊に拠りながら、沖縄返還交渉の最終段階における「尖閣問題」をたどってみる。
中華民国が外交的に尖閣諸島の返還を米に要求し始めるのは1971年3月15日、駐米中華民国大使館から国務省に届けられた口上書によってである(矢吹本27頁)。この口上書は同諸島と台湾との歴史的なつながりを論じた後、こう述べる。
「中華民国はこれまで地域的安全保障の見地から、米国がサンフランシスコ条約第3条に基づいて軍事占領を行うことに異議申し立てをしなかった。・・・米国の占領が1972年に終了することに鑑みて、米国が尖閣諸島に対する中華民国の主権を尊重し、中華民国に返還されるように要求する」
興味深いのはそれまでの自らの沈黙を「地域的安全保障の見地から」と理由づけている点である。しかし、なぜ中華民国が尖閣に対して主権主張をすることが地域的安全保障に影響するのかについては説明がない。尖閣諸島のうちの久場島と大正島は1955年以降、米軍機の射爆撃場となり、米軍は形式的にはその使用料を日本側に支払っていたのであるから、中華民国があの島々を自国領と認識していたのなら、正式に返還を求めて、その上で改めて射爆撃場として提供すればよかったのであって、安全保障の見地から「言わなかった」というのは苦し紛れとしか考えられない。
それでは第2次大戦中から中国を指導してきた蒋介石はあの島々をどう考えていたのか。遠藤氏は米スタンフォード大学に保存されている「蒋介石日記」から該当部分を抜き出してくれている。1970年8月16日の日記―
「尖閣諸島問題に関して我が国は放棄していないだけでなく、琉球の主権問題に関してさえ、歴史的にも政治的にもいかなる政府も日本に所属するものと認めたことはない。・・・我が国の政府は隣国との親睦を尊重し、未だかつて主権問題を持ち出したことはない(ましていわんや、このようなちっぽけな島のために)。それは親睦を傷つけないようにするためだった。ただし、中国政府四百年来の歴史の中で、これ(尖閣)に日本の主権があるとみなしたこともなければ、また条約による規定を見出すこともできない」(遠藤本223頁)
ここではそれまで尖閣を持ち出さなかった理由は「隣国との親睦」のためとされている。しかし、1952年に台北で行われた日華平和条約交渉ではあの島々はまったく話題に上らなかった。話題にもしなければ、親善も伝えようがない。これもまた迂闊、不注意の言い訳にすぎない。
米に返還要求の口上書を届けた後、71年4月7日の日記には蒋介石の処理方針が書かれている―
「この列島の主権は、歴史的にも地理的にも台湾省に属することは明白であり、争う余地がない。
事実上、現在はアメリカが占領している。その帰属をどの国にするかに関しては、アメリカが決定することだ。
仮に臨時的に日本に渡したとしても、我が国は国際法廷に提出して法律的に解決するものとする。
この問題は絶対に軍事的な解決をしようとしてはいけない。・・・」(同228頁)
言い訳は言い訳として、ここに示されている蒋介石の尖閣認識はすこぶるまっとうである。帰属を決めるのは米であって日本ではないこと、結果に不満なら国際司法栽に持ち込むこと、いずれもきわめて理性的で、最近の中国政府のなんでも日本が悪い式の粗雑な理屈とは次元が違う。
最後の軍事解決をしないという一項は、平和主義からではなくて兵力を分散して、中国共産党に付け込まれることのないようにしなければならないということである。
さてそれでは、米と中華民国との間ではどういうやり取りが行われたか。
71年4月12日午前、中華民国の周書楷・駐米大使は離任の挨拶(帰国して外相に就任することが決まっていた)をかねて、ニクソン大統領、キッシンジャー補佐官と会談した。この席で周大使は「これ(尖閣)は中国の国益防衛と関わる。もし台湾が国益を失うならば、知識人や海外華僑は『向こう側に行かざるを得ない』と感じるだろう[台湾支持をやめて北京支持に転ずるの意]」と、警告ともとれる言葉を口にした。(矢吹本28頁)
周大使はこの日の午後に再度、キッシンジャーおよびジョン・ホルドリッジ国家安全保障会議東アジア担当スタッフに会って、自国の立場を強調する。これを受けてキッシンジャーはホルドリッジに両国間のやり取りをまとめたメモとそれに対する米国務省のコメントを求める。国務書のコメントは「対立するクレームについては、いかなる部分についても、いかなる判断も行わない。それらは関係諸国で直接に解決すべきである」というものであった。米は領有権争いには「特定の立場はとらない」という、現在までにつながる態度である。これを見たキッシンジャーは手書きで次のようなメモを残している―
「日本に尖閣を与えるというのに、より中立な立場などというものが取れるのか?」 “But that is nonsense since it gives islands to Japan. How can we get a more neutral position?” (矢吹本29頁、遠藤本241頁)
まさにキッシンジャーが言うように、現物を日本に渡しながら「自分は中立だ」と言うのは矛盾である。そこで苦し紛れに援用されたのが「主権(領有権)と施政権は別」という論理である。けれど、本来、この両者は不可分一体であり、前者があるから後者があるのであり、また後者抜きの前者というのも考えにくい。
しかし、沖縄の場合、米は1941年にルーズベルトとチャーチルが調印した「大西洋憲章」で「両国は領土その他の増大を目指さず」と約束した手前であろう、51年に沖縄の継続占領を決めた際に、当時のダレス国務長官顧問は「米は施政権を持つが、日本は残存主権を持つ」と言明して、施政権と主権を分けた。その後、日本国内からの返還要求に対して、アイゼンハワー大統領(57年)、ケネディ大統領(61年)もこの言葉で将来の返還を暗示して、統治の継続を納得させる手段とした。この言葉は日本では「潜在主権」と用いられたが、尖閣問題が浮上して、この概念は米にとって2度のお役目を果たすことになったのである。(この経緯は矢吹本に詳しい)
それにしても、それまで長年にわたって黙っていた中華民国がにわかに領有権を主張し始めたのだから、米はそれを一蹴してもよかったはずだ。それをせずに「中立」の外衣をまとったのはなぜか?
1つには国連代表権問題で中華民国はますます情勢不利に陥っており、米自身さえ「ピンポン外交」に続いて、さらに北京への接近を図っていた最中であった(この後7月にキッシンジャーは有名な隠密北京訪問を敢行する)から、この問題で北京、台湾いずれに対しても明確な態度表明は避けたかったこと、そしてより差し迫った問題としては、当時、繊維製品のアジア諸国からの輸入が米の国内業界を圧迫しており、それを緩和すべく特使を日台双方に派遣するなど外交努力を重ねていたので、尖閣では日台どちらをも怒らせたくなかったこと、といった事情が考えられる。
結局、米はニクソン、キッシンジャー、ピーターソン経済担当補佐官の3人が6月7日(沖縄返還協定調印の10日前)に会談して、「領有権には立場を取らない」を最終決定する。その際にキッシンジャーは次のように言ったという―
「正直なところあの島々については聞いていなかった。 “ I, frankly, had never heard of these islands” (ニクソンも「自分も同じだ」と言った)。・・・もし台湾が6か月前に言っていれば、あるいはせめて今年の2月、3月に台湾で開かれた貿易会談で、アメリカの商務代表が「このお島を台湾に与えてほしい」とわれわれに要求していたならば、まだ考えようがあったかもしれないが、しかし、返還協定に署名する寸前になって言って来られても挽回することは不可能だ」(遠藤本250頁)
日本政府が繰り返す「歴史的にも法的にも日本固有の領土」はこうした綱渡りの結果であったのだ。
さて、偶然に恵まれたとはいえ、日本は別に強引にあの島々を自分のものにしたわけではないのだから、その点は堂々と主張すべきである。しかし同時に、こういう経過であの島々を日本領とされた中国の国民(大陸も台湾も)はなんとも割り切れない、口惜しい気持ちを捨てることはできないだろう。
それではどうするか。まず「日本固有の領土」「争う余地のない中国領土」と言い合っていたのではどうにもならない。あの島々はどちらのものであってもおかしくないし、逆にいえば(現状の法的位置はひとまず措いて)どちらも100%自分のものにするのは無理だということを、両国民が共有することが必要だ。
それには両国の国民が見ている前で、それぞれの領有主張とそれに対する反論をぶつけ合わせるしかない。それを十分に行えば、どちらのものと決めるような問題ではないことが両国民のかなりの部分に浸透する。そうなれば後のやりようはいくらでも知恵が出てくるだろう。その道筋をまずつけるべきだ。
安倍総理の「領有権問題は存在しないのだから交渉はしない。領土では1ミリも譲らない」は大局を見ない「匹夫の勇」としか言いようがない。
初出:「リベラル21」より許可を得て転載http://lib21.blog96.fc2.com/
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