岩田弘先生を送る

 岩田弘先生が1月31日、急逝されました。82歳の高齢で、昨年8月には猛暑で動けなくなって救急車で病院へ、といったこともあり、心配していましたが、9月からは月一回の「岩田ゼミ」も再開し、「ぼくは身体が強いんですね」と言っておられました。

 1月31日は、近くに住む弟さんが先生宅を訪れると、弟さんがダウンのジャケットを着ているのを見て「俺もほしい」ということになり、弟さんの車で買い物に出かけ、岩田先生の希望で一緒に外食しました。弟さんの話では、こんなことはめずらしく、一緒に外食したのは初めてだったそうです。よほど気分がよかったのか、帰宅後「今日は楽しかった」と妹さんに電話したということです。

 それだけに、1月31日の岩田弘先生の急逝に、私たちは不意を突かれ、せめてあと数年生きていてくれたら、と願わずにおられませんでした。

 

 「岩田ゼミ」と書きましたが、もともとは、立正大学経済学科の大学院の岩田先生のゼミに、自称岩田先生の弟子たちが参加していた「岩田・五味ゼミ」の流れです。岩田先生が退職したあと、流山のご自宅に6,7名が月1回集まって研究会を続けました。それを「岩田ゼミ」と呼んでいたわけです。

 2月19日に次の岩田ゼミが予定されていたのですが、永久に実現がかなわなくなりました。

 私は1月の岩田ゼミを欠席したので、12月が最後になりました。

 12月のゼミのとき、岩田先生から「アナリーの『二都物語」を読んだか」と聞かれ、読んでないと答えたところ「矢沢君は理科系なのだから、ITについてもっと研究しなければだめだ」と叱られました。そこで、2月のゼミにはぼくからアナリーだけではなく「現代の科学技術の発展と産業・経済の発達の関連について報告します」とお伝えしたところ、たいへん喜ばれたそうです。

 2月1日の朝、岩田先生と同じ団地に住んでいる五味久寿君から岩田先生逝去の第一報が来たとき、ぼくは2月の岩田ゼミに備えて、文献を読んでいる最中でした。岩田先生の自宅に駆けつけると、書斎の机の上にはアナリーの『二都物語』がひろげたままにしてあり、先生も19日のゼミに向けて、準備していたことが分かりました。19日の「岩田ゼミ」が実現できなくなったことは、かえすがえすも残念です。

 不思議なもので、岩田先生に聞いてもらえないとなると、とたんに、報告をまとめる気持ちも失せてしまいました。

 そんな気持ちになるのは、今回だけではありません。

 岩田先生の世界経済分析には、ぼくは不満の点が多く、とくに産業技術の言語化によって経済システムが生物学的有機体になるという説にはいつも異論を唱えていました。私は仕事上の必要から言語学を20年以上理論的実際的に研究してきたので、岩田先生の「言語学」にはいつも悩まされてきました。既成の言語学の研究史を全部無視して「岩田言語学」を語るのは、いかにも岩田先生らしいです。たとえば「コンピュータ言語」とか「遺伝子言語」とか岩田先生がさかんに言うので、「比喩としていうのはかまいませんが、人間の言語とは本質的に異なるものです」と申し上げると「新しい言語学を作らなくてはだめだよ」という具合です。

 岩田先生が「ヘンなこと」を言うので、それに反論するためにこちらは一所懸命勉強しなくてはなりません。こうしてこちらの理論も鍛えられる、ということがずいぶんとありました。

 私と岩田先生の出会いは、記憶が定かでありませんが、1963年か64年にさかのぼります。

 60年安保闘争の終結とともに、全学連を支えたブンド(共産主義者同盟)は解体しました。ブンドの理論的指導者たちが次々と「マルクス主義」「マルクス経済学」から離れていったのですが、その根底には、ブンドが依拠していた宇野経済学、つまり、マルクスの『資本論』を世界認識の「科学的」方法として再構成した宇野弘蔵氏の三段階論によっては、60年安保後の日本の高度経済成長社会の意味を世界史の中で捉え切れない、ということがあったと思います。

   そんなとき『経済評論』誌(1963年6月号?)に載った「現代資本主義と国家独占資本主義論」が「宇野経済学の限界を超えるマルクス経済学の発展」として、私たちの眼前にあらわれたのです。 岩田弘先生は、宇野氏の「純粋資本主義モデルとしての原理論」に対して「資本主義の歴史的現実的発展過程の内的叙述」としての原理論を提起し、その方法に基ずく世界資本主義論によって「世界危機―世界革命」論を提起した、というのが私たちの理解でした。これは混迷期の「マルクス主義」「マルクス経済学」に力を取り戻し、わたしたちを元気づけるものでした。

 私たちが岩田先生を訪ねたのは、ちょうど『世界資本主義』(1964年7月未来社刊)の執筆が最終局面に入っていた頃でした。

 名古屋大学の学生のとき日本共産党の活動家として大須事件で検挙され、長い裁判闘争がまだ続いていた当時の岩田先生が革命運動についてどう考えていたかは、全く分かりませんでした。私たちも聞かなかったし、先生から話されることもありませんでした。私たちはもっぱら「マルクス経済学者・岩田弘」先生の世界資本主義論に惹かれて、接近したのです。

 ですから、岩田弘先生が『世界資本主義』の「序」に次のように記したのは、ひじょうな驚きでした。また、うれしいことでした。

 せまりきたるあらしの時代を前にして、人類の未来の事業のために自らを準備しかつ献身することを自己の人間的使命として自覚しつつある日本の読者に、われわれは固い連帯のあいさつをもって本書をおくる。

 このときから、岩田弘先生と私たちの長いつきあいが始まりました。

 第二次ブンド再建と70年安保闘争、学園闘争と第二次ブンドをはじめとする諸派、諸グループの解体。そして、今世紀に入って加速するパクス・アメリカーナの崩壊と東日本大震災・福島原発事故は、再び「世界の中の日本」の世界史的な課題をわたしたちに鋭く突きつけています。

 いまこそ「岩田経済学」――世界資本主義論――の理論的発展が問われていると思います。

 2003年「世界資本主義フォーラム」というウェブサイトを立ち上げ、岩田先生の著作、立正大学での講義記録や雑誌掲載論文などを掲載しました。

 http://www5e.biglobe.ne.jp/~WKAPITAL/

 このサイトを立ち上げたときの「趣意書」は、まことに岩田先生らしい、スケールの大きなものです。また、岩田先生の生涯を掛けた仕事が何かをよく表していると思います。

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フォーラム参加への呼びかけ

世界資本主義分析の課題

20世紀をどう総括し、21世紀をどう展望するか

岩田 弘

フォーラム運営委員  岩田弘  五味久壽  矢沢国光(事務担当)

Ⅰ 激動の世紀の終幕

◆20世紀前半の二つの世界戦争、第1次大戦と第2次大戦

◆これによって直接間接につくり出されたいくつかの世界危機

◆これらの危機をめぐる革命と反革命の激突

◆その世界史的な産物としての特殊現代的な国家体制、政治 経済体制

◆そのなかでの新しい生産力と生産システムの登場

Ⅱ それを世界史的にどう総括するか

 1)二つの特殊現代的な国家体制とその行詰り

◆現代デモクラシーの世界化とポピュリズム化

◆ソ連東欧「社会主義」の自壊

◆中国「市場社会主義」の「市場資本主義」への変身

 2)新しい生産力の登場と基軸産業の交代

◆重厚長大産業の停滞と加工組立産業の比重の増大

◆情報通信産業の発展とデジタル革命

◆分散・並列・ネットワーク革命としての新産業革命の開始

 3)世界資本主義の金融グローバルキャピタリズムへの拡散

◆アメリカ資本主義の金融資産資本主義への転化とその債務資本主義化

◆EUの東方への拡散とヨーロッパ資本主義の表層化

◆中国資本主義の台頭と日本・アジア資本主義の再編

Ⅲ それは21世紀に何を提起するか

  ◆21世紀の人類史的課題としての国家と資本主義のトータルな破棄

  ◆それはマルクス主義理論に対しては、①新産業革命の人類史的意義の確認、②国家による国民経済の中央集権的な管理統制や組織化、計画化の弁護論――20世紀型社会主義の弁護論――からの全面的な決別、③コミュニズム=コミュニティ主義の原点への復帰を、特に要求する。

Ⅳ 本フォーラムの当面の課題

  ◆このための自由な討論の場としてホームページ「世界資本主義分析フォーラム」を開設。

  ◆ 本ホームページへの有志の参加、関連ホームページのリンクを請う。

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 岩田先生は、親交のあった降旗節雄さんが亡くなられたとき、こう言われました。「ぼくは(降旗氏から癌の進行を伝えられて)降旗君にこう言ってやった。われわれは戦場で討ち死にだね、と」。

 岩田先生の「戦場」は、最後まで世界資本主義論であったとぼくは思います。

 4月8日(日)に、こうした岩田先生の生涯を掛けた「戦い」を受け止めようとするさまざまな立場の人たちが集まる「偲ぶ会」を予定しています。会場・詳細が決まり次第、ちきゅう座でお知らせします。一人でも多くの方が参加してくださることを、期待しています。                         2012.02.21

〔opinion0781 :120222〕