―革命3年後のエジプト⑥
2011年のエジプト「1月25日革命」は、ムバラク独裁政権の「抑圧」と「腐敗」に対する怒りが積もり積もって民衆が決起し、政権打倒を成し遂げた。昨年7月のクーデターで権力を奪ったシーシ将軍に率いられる軍と暫定政権が、ムバラク政権以上にムスリム同胞団とリベラルな若者グループを過酷に弾圧した実態の一部は、前回⑤で書いた。 その弾圧リストには、4月7日、二審の裁判所が、革命の先導者として国際的な支持を集めた「4月6日運動」のリーダー、マーヘルら3人に対して、投獄3年の一審判決の取り消しを求める控訴を却下したことが加わる。シーシが任命した暫定政権のマンスール大統領は、司法のトップ・最高憲法裁判所長官の現職だった。この判決とモルシ支持者たち529人への死刑判決の最近の事例だけでも、シーシが軍、内務省(治安警察)と司法(裁判所)を駆使して、反対勢力を過酷に抑圧し、支配を安定させようとしていることを示している。革命前の「抑圧」は復活した。では「腐敗」はどうか。
▽新首相は最大の建設企業オーナー
5月26,27日に内定した大統領選挙では、同胞団などがボイコットし、シーシの独走が予想されている。シーシは出馬表明の演説を「私は約束する。わたしに指導者の名誉が与えられるならば、国民とともに安定、安全そしてエジプトの希望、神の意志を実現していくことを」と締めくくった。シーシは安定、安全が第一であり、そのための抑圧、恐怖による支配なのだと確信しているようだ。そしてその支配には、ムバラク時代に経験済みの「腐敗」がついてくる。革命後、隠れていた腐敗勢力が、シーシ体制のなかで復活し始めた。
2月末、突然、暫定政権のベブラウィ首相が更迭され、3月1日にイブラヒム・マハラブ住宅相が新首相に任命された。新首相はムバラク政権時代、与党・国民民主党の有力幹部で、中東でも最大規模クラスの建設企業アラブ・コントラクターのオーナー。土地開発、建設事業はムバラク政権の腐敗構造の重要な一翼だったが、彼は逮捕されることもなく、革命後、鳴りを潜めていた。クーデター後の暫定政権で住宅相に任命され復活、首相任命でシーシの大統領選挙運動と、おそらくその後のシーシ体制を支える役割を担うことになった。マハラブはさっそく「われわれはエジプトの安全と安定、テロの粉砕のためにともに働きます。それは、投資への道を開きます」とシーシのいつもの発言を繰り返した。リベラル派とされる社会民主党のリーダーだったベブラウィ前首相の更迭の理由は、多数の労働スト、電力不足、経済の悪化への対応に失敗した責任だと、メディアは伝えた。これらの深刻な諸問題の責任をベブラウィに負わせるとともに、マハラブの下でシーシの選挙態勢を万全にするための首相交代に違いなかった。
▽腐敗の大物も続々免罪
革命後、抑圧と腐敗に対する民衆の怒りの爆発に対応して、軍政と司法当局は、ムバラクとその2人の息子アラーとガマル、閣僚、与党国民民主党の有力幹部、有力経済人たちを逮捕。国有財産の不当売買、不正利得、贈収賄などの罪で告発した。軍政下からモルシ政権下にかけての2年余の間に、裁判所はその多くに、投獄と罰金の有罪判決を下し、被告たちは控訴していた。ところが、クーデター後、被告の保釈に始まり、起訴取り消し、無罪判決、罰金軽減が相次ぎだした。腐敗の大物たちのケースの一例をあげるとー
1.昨年12月19日、ムバラクの息子アラーとガマルの二人と、ムバラク時代の元航空相・空軍司令官シャフィークほか二人の将軍に、裁判所は無罪判決を下し、釈放した。いずれも空軍の所有地など国有財産を土地開発のために不当に安く払下げ、国家に損害を与え、不当な利益を得たとして起訴されていた。シャフィークは2012年の大統領選挙に立候補し、当選したモルシと決選投票まで争ったが、その後、ドバイに逃れていた。
2.また、ムバラクの最側近で、与党国民民主党の幹事長も務めた「鉄鋼王」といわれる財界人、アハメド・エッズ。革命後まもなく逮捕され、中東最大の国有鉄鋼企業を不当に取得したのをはじめ複数の罪状で起訴された。そのうちの1件で拘禁60年の一審判決を受け、拘留されていたが、3月10日、保釈金200万ポンド(約2400万円)で釈放された。控訴審では、起訴取り消しか、彼にとっては軽い罰金で済みそうだ。
▽特権と腐敗構造を知り抜くシーシ
昨年7月3日、モルシ大統領から権力を奪った直後、シーシが最初に行った軍の人事は、シーシも経験したことがある軍総合情報局(GIS)長官に、モハメド・アルトハニ将軍を任命したことだった。前任者はモルシが任命した将軍だった。アルトハニはシーシより8歳年長で、退役後、政府の行政監視庁の長官になった。同庁は、政府の汚職監視機関で、実際には政府と軍の不正、汚職の情報を収集し、秘密裏に内部処理する機関だ。
一方、ムバラク時代から軍政を経てモルシ政権の最初の1か月まで、軍最高評議会議長兼国防相を務めたタンタウイは、シーシを最も信頼していたという。シーシを最若年の最高評議会メンバーに選んだのも、GIS長官に選んだのもタンタウイだった。タンタウイの下で、シーシはアラブ最大の軍事企業や様々な民生企業を傘下に持つ軍の権益に深くかかわり、モルシ政権で軍のトップと国防相に就任してから、軍の権益保護に関しては断固として譲らなかった。
アルトハニは、ムバラク時代からシーシと非常に近い先輩、後輩だった。彼をGIS長官にしたことで、シーシは政府各省と軍の特権や腐敗の実態を十分に把握できるようになった。シーシ自身は汚職に直接かかわらないとしても、政府と軍、経済界の特権と腐敗の実態を知り抜き、それをアメとムチにして、支配の武器に駆使するに違いない。
シーシの暫定政権が次に行った人事は、退役将軍らのお決まりポストだった十数県の県知事を、モルシ政権が任命した民間人から、退役将軍らに取り返したことだった。県知事は土地開発で利権を左右する大きな権限を持っている。
しかし、ムバラク体制を打倒したエジプト民衆が、復活した「抑圧」と「腐敗」をいつまでも許すはずはない。「抑圧」と「腐敗」がシーシ独裁体制を揺るがすときが、やがてくるに違いない。
初出:「リベラル21」より許可を得て転載http://lib21.blog96.fc2.com/
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