「イスラム国」が短期間に、二つの国家の3分の一以上を支配するのに成功した理由について、本連載の③で最高指導者バグダディのカリスマ的な権威と旧フセイン政権の軍・バース党の残党を取り込んだことを挙げた。つづいて、彼らの戦略、戦術の構成とその特長、弱点を考えてみよう。
▽成功したシリア進出戦略
連載②で年表的に書いたように、反米武装闘争のなかで発足し、国際テロ組織アルカイダの支援のもとに成長した「イラクのアルカイダ」(AQI)は、2006年に指導者のザルカウィが殺された。米軍が、2006年に首都西方のアンバル州ファルージャなどのスンニ派部族を買収して、反テロ作戦を拡大し、AQIに大きな打撃を与えた成果だった。その後継指導者たちは、旧軍・バース党残党勢力との協力関係を強めるとともに、アルカイダと距離を置くことを示唆する「イラク・イスラム国」(ISI)と改称した。その後継者たちも10年に米軍によって殺され、後継指導者にバグダディが就任した。バグダディはアンバル州のスンニ派部族との関係を修復、同州を根拠地として勢力を拡大した。
2011年、シリアでアサド政権と反政府民主化勢力との内戦が始まると、ISIはシリアにまず幹部と戦闘員を派遣し、政府軍との戦いに加わるとともに、シリア人だけでなく他の外国からもイスラム過激派の戦闘員や普通の若者たちを集めて勢力を拡大。1年後には、少なくとも2,3千人規模になったISIは、首都ダマスカス周辺と西部での反政府勢力との戦闘で政府軍が手薄になった東北部で、町や村、政府軍基地と油田施設を次々と攻撃していった。ISIはイラクの組織から、国家、国境そのものを無視した地域の組織に変化したのである。
いうまでもなく、この地域はアッバース朝(750-1258)からオスマン帝国(1299-1922)まで一つの巨大イスラム帝国の一部であり、現在の国境線は第一次世界大戦の戦後処理で、英国とフランスの利害によって分割され、確定された。しかし1940年代、イラク、シリア、レバノン、パレスチナで西欧帝国主義支配からの独立、アラブ民族の統一を目指すバース党が成長、シリア、イラクで63年、両国のバース党支部がクーデターで政権を奪取した。しかし、両国のバース党支部は、両国家統一を目指すどころか、主導権を争い、それぞれの国家の利益を追求して、厳しく対立していった。
その両国間の国境線をバグダディに率いられるISIは無視したのだ。そのきっかけはシリア内戦だった。イラクとトルコに接するシリア東北部のISI支配地域は、トルコ経由で外国からの志願者を受け入れることも、石油と盗掘美術品を密輸出すること野放しでできる、絶好の根拠地となった。ISIは外国人を人質にして身代金を奪う作戦も拡大、世界一豊富な資金と武器を持つイスラム過激派組織に成長した。シリアに介入し始めた11年の時点で、バグダディがここまでの戦略を構想していたかどうかはわからないが、シリア介入はISIにとって大成功となった。
2013年4月、バグダディは組織名を「イラク・イスラム国(ISI)」から「イラクとアッシャムのイスラム国(ISIL)」に改称した。シリアでの成功に自信を深めて、戦略目標をイラクからシリア、そしてレバノン、ヨルダンパレスチナを含むアッシャム(英語名レバント)地域に広げたのである。
しかしバグダディ自身も旧軍の残党が多い幕僚たちも、イラクで生まれ育ったイスラム教スンニ派のイラク人であり、イラクを支配することが意識の中心にあるに違いない。
ISILは13年6月には都市部人口22万人のシリア北西部のラッカ市を占領して本拠地にした。2014年1月には、戦闘員が1万人を超え(米中央情報局は3万人以上と推定)、シリアから軽トラッ部隊を連ねてイラクに越境、イラク北・中部の町や村、ダム、石油施設、政府軍基地への遊撃的攻撃を開始した。6月には人口180万人のイラク第二の都市モスルを占領。地域を限定しない「イスラム国」の樹立、その統治とイスラム教の最高指導者カリフにバグダディの就任を宣言した。組織名もISILから「イスラム国(IS)」に改称した。後に紹介するが、「イスラム国」はリビアをはじめアラブ諸国のイスラム過激派組織との連携を拡げており、戦闘員の供給源にもしている。これらの国の組織さらには支配した地域を「イスラム国」に加える意思をバグダディは表明したといえる。
しかしその一方で、イラク、シリアのバース党が“犬猿”の関係になったように、いずれイラク人意識が「イスラム国」を崩壊させる要因の一つになる可能性は小さくない。(続く)
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