戦後の激流に流された「掟破り」 ―あらためて考える「歴史問題」 3

著者: 田畑光永 たばたみつなが : ジャーナリスト
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 中国、朝鮮、日本の共存体制というアジアの掟を破った日本の20世紀前半の行動は、ポツダム宣言受諾からサンフランシスコ講和条約調印という国際外交の世界では、特にその非道義性を問題にされることはなく、一般的な戦争処理の形を踏襲して処理された。したがってそれらの場面で「歴史問題」が登場することはなかった。謝罪を最初に口にしたのは敗戦直後に日本の首相に就任した東久邇稔彦陸軍大将で、中国に謝罪使を派遣する考えを公表したが、実現せずに終わった―ここまでが前回で、それでは個別の外交はどう進んだかが今回のテーマである。

 本稿では便宜上「歴史問題」という言葉をタイトルに使っているが、戦後すぐの時期には戦争はまだ歴史になっていなかったから、「日本軍国主義の一掃」がアジアから日本に注がれる視線の先にあるテーマであった。
 1948(昭和23)年8月、戦後初めての中国からの要人として国民政府の張群・前行政院長(当時)が来日した。張群は個人の資格での訪日と言いつつ、芦田均首相との会談では「日本の旧勢力の復活については特に心配している」と、軍国主義がほんとうに一掃されたかどうかを確かめるのを大きな目的としていることを明らかにした。
 そして帰国を前にした記者会見ではこんな風に述べている―
 「例えば先日鎌倉へ行った時あるお寺に軍馬、軍犬を祭ってあるのを見たが、昔風の武士道的神道的残りがあるように見られた」(1948年9月12日『朝日新聞』)
 「たとえばまだ軍馬や軍犬を神のようにあがめたり、靖国神社へ参拝するものも多いといった具合で、本当に日本が民主化になるためにはなお多くの困難があると思う」(同『毎日新聞』)
 張群は帰国後、中国国内向けにラジオ放送を通じて日本の印象を語った(9月28日夜)が、そこでの結論は「今日の日本人の思想、社会の風俗習慣は学芸作品、芝居などになお歴史の余毒が残っているが、これが日本の民主化を妨げているとは認められない」(9月29日『毎日新聞』)という穏当なものであった。因みに戦後、靖国神社が中国人から公に批判されたのは、おそらくこの時が最初である。
 しかし、中国、韓国(北朝鮮も)との新しい国交調整の舞台は一向に整わなかった。
 まず中国であるが、日本敗戦の翌年から国民党と共産党の内戦が始まり、3年後、日本との戦争の主たる当事者であった国民党政権は敗れて、日清戦争以来日本領となっていた台湾に移り、大陸は共産党政権の統治するところとなった。1950年6月、朝鮮戦争が起こる。初戦は北朝鮮有利に進んだ戦局だったが、9月に国連軍が仁川に上陸して北朝鮮軍の背後を衝いてから、攻守が逆転。10月、北朝鮮政権は崩壊の淵に追い詰められる。そこで成立してまだ1年にもならなかった中国の共産党政権は義勇軍を北朝鮮に送って、国連軍の主力として韓国を援けていた米軍と直接戦火を交えることとなった。
 日本と連合国との講和会議は1951年9月に米サンフランシスコで開かれたが、中国については、共産党政権は米と対決し、国民党政権は台湾でわずかに命脈を保っているという状態であったために、双方とも講和会議には呼ばれず、結局、日本は米の強い圧力のもと翌1952年、台湾の国民政府と日華平和条約を結んで一応戦後処理をすることになった。
 しかし、大陸に基盤を失った同政府には日本の昔の「掟破り」を追求するほどの力はなく、かつての戦争当事者として、とにかく「平和条約」と名のつく条約を結んだことで(それも交換公文で適用地域を「現に支配している地域、または今後入る地域」に限定された上で)、かろうじて面子を保ち、賠償請求は「それは戦場だった大陸の政権との話」(当時の下田条約局長の回想禄)と日本に拒否されて、やむなく自ら請求権を放棄せざるを得なかった。
 もっとも、この条約交渉の日本側の主席全権をつとめた川田烈が1952年2月17日、台北空港に到着した際に書面で発表した声明には次のくだりがあった。
 「われわれは『恨みに報いるに徳をもってせよ』といわれた蒋(介石)の宣言を体し、これを徹底的に示された中国国民の態度を日本国民の一人として厚く感謝し、かつ中国国民の伝統的良識を深く尊敬、信頼している。中國が日本に対し不快な記憶を有せられることと思うが、今やわが国民は過去を償い、日本を平和的な国家として再建するため多大の困難を忍びながら努力していることを認めて頂きたい」(『毎日新聞』1952年2月17日夕刊) 
 この川田全権の声明は、日本政府として戦後初の中国国民へのメッセージであるが、戦争のことか植民地支配のことかもはっきりさせない形で「不快な記憶」という一語にすべてを語らせるというのは、後年の田中首相の北京訪問時における「ご迷惑」発言の原型を見るようである。
 しかし、それにしても日華平和条約の締結は事務的な外交交渉ではすまないものという認識があればこそ、極力漠然とでもなにか言わないわけにはいかないと交渉責任者は感じたのであろう。
 結局、内戦で敗れたという負い目を背負う国民政府としては、条約の相手として選んでもらったことをなによりとして、過去の「掟破り」に一矢報いるとか、謝罪を求めるとかはこの交渉では話題にもならなかった。
 一方、朝鮮半島との戦後処理はどうなったか。戦後処理といっても日本と朝鮮は戦争をしたわけではなく、朝鮮半島が日本領であった状態を日本の敗戦を機に併合以前に戻すことが戦後処理の内容であった。
 その根拠は日本が受諾したポツダム宣言に「カイロ宣言の各条項は守られるべく」とあり、そのカイロ宣言(1943年12月)に「三大国(米英中)は朝鮮の人民の奴隷状態に留意し軈(やが)て朝鮮を自由且独立のものたらしむるの決意を有す」とあったことである。
 しかし、朝鮮半島は太平洋戦争末期、沖縄戦のあと北上する米軍と8月8日に対日参戦して中国東北部を南下するソ連軍(当時)が南北から進攻し、結局、北緯38度線を境にして米ソ両軍が分割して占領することになった。しかも南北はともに統一を標榜しながらも、対立を深め、1950年6月には全面戦争に突入したため、日本との国交交渉は朝鮮戦争の休戦が実現した後、1951年10月にようやく南半分の韓国との予備交渉が始まり、翌年第1次本会談にこぎつけた。
 この交渉は難航した。第1次会談から14年にわたって中断、再開を繰り返し、1965年6月、第7次会談でようやく妥結した。難航の原因はそもそも併合が無効だということから、日本統治のあり方まで、韓国側はまさに日本の「掟破り」を追求し、日本側がそれを押し返すという繰り返しだったからだ。それが1965年に至って妥結したのは、当時の韓国・朴正熙政権が経済的にきわめて苦境にあって、韓国側の対日請求権の解決に、無償供与3億ドル、有償供与(ODA)2億ドルという金額で日本側と妥協しなければならなかったという事情があった。併合条約は無効、植民地支配に謝罪を、という「歴史問題」での主張は貫きようもなかった。
 結局、結ばれた「日韓基本条約」には日韓両国語のほかに英文のテキストを作成して、それをも正文とすることにし、第2条の「(1910年の併合条約は)もはや無効であることが確認される」という日本語条約文の「無効」に“null and void” という「無価値、空虚」を強調する英語の訳語をあてることで、韓国側は無念の思いを形にしたのであった。
 19世紀末からちょうど半世紀間、軍国主義日本が三国の共存関係を一方的に破って中国、朝鮮を従属させようとした「掟破り」は、現実世界では完膚なきまでに破綻し、連合国への無条件降伏という結末を迎えたが、その後の情勢変化、すなわち東西冷戦の激化、中国内戦、朝鮮戦争などによって、中華民国、韓国が苦境に陥っている中で、日本は「掟破り」に正式には頭を下げないまま、戦後世界への復帰をはたした。それどころか、東西冷戦が激化する中で米国が日本占領政策の重点を軍国主義の根を絶つことから自由陣営の一員としての育成へと切り替えたために、国の分裂という大きな矛盾をかかえた中国、朝鮮より身軽に復興の道を歩むことができたのであった。
 しかし、戦後はそれでは終わらない。中国大陸が外交的に未処理のままに残されていた。それが解決されるのが1972年の田中首相の訪中による日中国交回復であるが、そこでは「掟破り」はどう決着したのか、それが次回のテーマである。(続く)

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