――八ヶ岳山麓から(279)――
最近つづけて教育に関する新刊本を2冊読んだ。
1冊目は小川洋著『地方大学再生――生き残る大学の条件』(朝日新書、2019年3月)である。
著者はさきに、『消えゆく限界大学――私立大学定員割れの構造』(白水社 2016)によって多くの大学・高校関係者の強い関心を引いた。本書はその続篇といえる。私なりにまとめると、小川氏が描く日本の大学の近未来像は次のようなものである。
〇政府・文科省の政策次第だが、東京大学・京都大学など旧帝大系の国立大学は、中長期的には学部学生数を減らし、海外留学生を含めた優秀な学生を対象とした大学院教育を拡充していく。地方大学は旧帝大系の法人傘下に統廃合が進められるだろう。
早稲田・慶応など有力私大も、学部学生数は維持しながら、人材育成に重点をおいた大学院教育を拡充するだろう。
〇地方自治体経営の公立大学は(おそらく地方国立大学も)、地域貢献型の大学が生き残る。長年定員に満たない私大が公営化した場合、一時的に受験者が増加しても、魅力あるカリキュラムを提供できなければ、入学希望者は漸減し元の木阿弥になる。
〇大都市圏の私大では、魅力あるカリキュラム開発などの努力によって成果を上げた大学が早慶に並ぶ有力私大となる可能性がある。
〇成績中位クラスの高校生を受け入れる大学は、専門性が明確で有効な資格・免許を取得できる分野に経営を集中するのが賢明だろう。地方の私大はどれだけ地域に根を張るかが生死の分れ目である。
〇下位に位置付けられ、実質的に入試競争のない(希望者全入に近い)大学は、定員割れが深刻化し、一層厳しい状況に追い込まれていく。
2,3年前までは大学問題を議論すると必ず「2018年問題」が現れた。2018年から18歳人口が急速に減少することによって、弱小私学が定員割れを起して、経営が成り立たなくなる恐れをこう言ったのだが、少なくとも現在「2018年問題」は消えている。
文科省が管理を厳格化し、私大の定員超過枠を縮小させた。そこで、より上位の大学から弾きだされた受験生が下位の私大にまわり、それがこの数年私大の定員割れを救っているからである。だから「2018年問題」が消えたのは一時的現象だ。
小川氏は「国公私立を問わず、地方大学は崖っぷちにある。そこでは、人口減少、衰退する地域、経済格差など、日本社会が抱える問題のすべてが横溢している。ところが、逆境下、浮上する大学も出てきた。沈む大学との違いはどこにあり、何が強みなのか」と問いかけている。
小川氏によればその答えは、教職員の努力があるか否か、その努力が成果になって実るような大学経営が(理事会によって)行われているか否かである。本書ではだれがどのように「浮上する」経営をし、だれがそうしていないか、具体的に実例を紹介している。詳細な調査に基づいて、切迫した問題への処方箋を提示した結論は実に説得力があり、ボーっと大学運営をやっている経営者の心胆を寒からしめるものである。
もう1冊は、朝比奈なを著『置き去りにされた高校生――加速する高校改革の中での「教育困難校」』(学事出版2019年3月)である。
朝比奈氏は8年前『見捨てられた高校生たち――『教育困難校』の実態-—』(学事出版 2011年)によって、高校生の低学力問題を論じた。本書はその続編で、教育現場の変わらない実態と変化とを明らかにし、その対策を訴え、さらに新しい高校教育改革に対する期待と危惧を論じたものである。
私がもっとも共鳴したのは変わらない部分である。それは貧困と低学力の結びつきである。またそれが親から子へ相続される悲しさである。
世間ではほとんど意識されていないが、朝比奈氏は「『教育困難校』の存在意義の一つに社会の治安を守るという効果がある」という。たいていの高校は頑丈な金網で囲われている。これは外部不審者の侵入を防ぎ、同時に生徒の脱走を防ぐためでもある。「脱走したい奴にはやらせておけ」という見方もあるが、脱走した生徒が街なかをうろうろし、時には万引き・喫煙をやらかし、刑事事件の加害者・被害者になる危険は十分にある。「教育困難校」はその高校生らを毎日少なくとも8時間閉じ込めておくことによって、地域住民の平穏な生活を保障しているのである。
このような「教育困難校」では、教師がもっともエネルギーを消耗するのは授業ではない。教師への罵詈暴言、執拗ないじめや無視(シカト)、万引き、不登校・退学など、次々起こる「事件」への対応と、これにまつわる親からの抗議や暴言・威嚇である。これでは授業をまともにできるはずがない。思うに、これらは原則として、刑事警察に対処をゆだねるべきものである。そして、私が現役教師のときも、貧困ゆえに授業料免除を希望する生徒が多かったのは、このような「教育困難校」であった。
朝比奈氏は「平常授業の日でも校門で教師が立番をしている高校を見かけたら、そこは『教育困難校』と思っても間違いない」という。——その通りだ。
10年前から不十分ながら貧困へのサポートがはじまった。民主党政権期に公立高校の授業料無償化がはじまり、2014年からは就学支援制度も設けられた。それによって生活保護世帯の高校進学率は少しだけ向上し、退学率も低下した。しかし朝比奈氏は、教育費の家庭負担は依然として多額だという。2016年調査では、授業料を除く「学校教育費」は公立で約25万円、私立で48万円である。
氏が比較的高く評価するのは、首都圏で1990年代から不登校・ひきこもり対策として通信制・朝昼夜の三部制定時制などの高校が出発したことである。これに引き続く教育改革の中で、文科省の肝いりで基礎学力習得を目指した高校と、それとは対極的なエリート教育を目指す高校が現れた。
大都市圏では学習や食事の各種支援が行われているが、多くは個人や民間団体に任せられ、自治体によって支援策はまちまちである。朝比奈氏は政策的努力がもっと必要だと言い、低学力の生徒に対してより多くの予算や人を配分するのが有効だと主張する。世間からは理解されにくいが、私は治安コストの観点からしても、もっともな見解だと思う。
さらに氏は、2019年度から移行措置が始まる新学習指導要領、大学入試センター試験に代わる「大学入学共通テスト」「高校生のための学びの基礎診断テスト」などについて、かなり詳細な検討を加えている。これらを議論するには、私はあまりにも長く現場から遠ざかっている。たとえば「基礎診断テスト」では、教育関連企業が教材を作り、それを学校が利用するという(企業がもうかる)仕組みらしいが、私にはテストされる「基礎学力」の内容がわからないのである。あらためてどなたかの明晰な議論をお願いしたいところである。
朝比奈氏は多くを語っていないが、残された問題を指摘しておきたい。
仕事の性質からみて、教師は教育の専門家でなくてはならない。だがいま幼稚園から大学まで、教師の数は100万を数えており、このほとんどが平凡な能力の労働者である。これを知力・体力を持った専門家にするためには、心理学・教育学・教科教育法などの、2年程度の適切な専門教育が必要である。現時点でも最小限、校長・教頭などの管理職は教育学修士の学位を持つものが望ましいと思う。
小川氏の『地方大学再生…』は、若年人口の減少と危機に瀕する大学のありかたという境界明瞭な問題に対し一定の処方箋を示したものだが、朝比奈氏の『置き去りにされた高校生…』のほうは、高校教育改革というあらたな処方箋が「置き去りにされた高校生」にもっと光を当てるものになることを訴えている。両書ともなるほどと胸に落ちる内容である。
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