――八ヶ岳山麓から(181)――
いままで何回か文化大革命について書いてきたが、なお言い残したことをいくらか語りたい。
私は1981年初めて中国へ行った。文革中も行きたかったが、日中友好協会だかに「文革支持」を誓わないと中国のヴィザは取れないので行かなかった。文革期には民主憲法をもつ日本人が、中国政府に代って同胞の思想・信条を検査するなどの恥ずべき仕事を公然とやったのである。
私は酷暑の南京で中国語の研修を受けて、それから北京に行った。知り合いとその知合いなどを訪ねて文革経験を聞きまわるためだった。そこには文革の質問をすると、涙が止まらなくなって話ができなくなる人がいた。顔色を変えて「何のために聞くんだ、日本人と文革とどんな関係がある!」と怒鳴る人もいた。侵略戦争を理由に、日本人は信用できないから本当のことは語れないという人もいた。
文革についての聞取りの中で印象に残ったのは、大量の死傷者と幼い子供のことだった。小学校レベルの子供の場合、文革はどんな存在だったのか。ここではあまり深刻ではない、ごく普通の例を語りたい。
王さんは幼年期を10年間父母なしで過ごした。父方の祖父は「地主」と階級区分された。母方の祖父は東部のある大都市の「黒社会(暴力団)」の「頭頭児(親分)」で1949年の革命のとき銃殺された。文革期母方の家系がばれるのは最大の恐怖だった。
彼は北京生まれの北京育ちである。1966年北京で紅衛兵による破壊が始まったとき7歳だった。
「7歳といえば人生で一番楽しい時代ではないか。だが運動が高まり平民百姓の日常生活にも影響が深刻になったとき、私の子供時代はいきなり終わったのだ」
ほかの罪のない家庭と同じように、彼も悪運から逃れることはできなかった。小学1年生のとき、母の職場は解散し、母は甘粛省嘉峪関へやられ、北京へは1年に1回春節の時にしか帰ることができなくなった。12日の休暇が与えられたのだが、往復に5日かかり、たった7日家にいただけでまた嘉峪関に戻って行った。6歳上の兄は、1967年に「上山下郷」の命令で内モンゴルシリンゴルの農村にやられた(「挿隊」という)。3年生の時、父親も湖北省の「五七幹校(強制労働農場)」へ下放された。一家ばらばらになったのである。
2つ違いの姉と王さんが残された。生活はどうなるのか異様な不安がわいてきた。王さんは頼るものがなくなって、命つきるといった思いで泣いた。ところが王さんの場合ひとつだけ救いがあった。父方のおばあさんがいて、これが安心して甘えられる存在だった。彼女は学校で教えられるような知識はなかったが、中国の庶民が持つ優良な伝統文化の持主で、思いやりがあり生活の知恵もあった。だがおばあさんは「地主身分」だったので、北京にいては紅衛兵に引っ張り出される恐れがあった。すでにおばあさんの友達は紅衛兵に殴られて死んでいた。
おばあさんは河北省の貧農の家の人であったが小地主に嫁いだ。このおじいさんは早逝していたが、おばあさんは「地主」に階級区分されたのである。
文革が始まって2年目の1967年におばあさんは姉と王さんを連れて当時の永定門鉄道駅(現在の北京南駅)から汽車で田舎の実家に帰った。田舎では運動の風波から逃れることができ、一時的ではあったが静かな生活ができた。
王さんはおばあさんが「これは内緒だけど」といって話したことをおぼえている。地主はそんなに悪い人ではないというのである。「おじいさんは地主にされたけれども、自分でも畑を耕し、他人に貸した畑はわずかのものだった。『佃戸(小作人)』の生活とそう違いはなかった。村ではみんな助け合って生活していたのだから」
ところが、まもなく問題が生まれた。王さんの体が農村の環境になじめなかったのである。ノミがいてこれに食われて体中におできができ、それが化膿した。おばあさんは見るにしのびず、孫二人を天津のおばあさんの妹の家に連れて行った。
天津ではしばらくのんびりした生活を送ることができた。だがおできは依然として直らなかったうえに、今度は天津にはナンキンムシがいてかゆみは一層王さんを悩ませた。おばあさんはこれを知ると、こんどはまた北京に連れて行き、そこに幼い二人を残して大急ぎで田舎へ帰った。紅衛兵の攻撃を考えると彼女は北京や天津には長く住めなかったのである。
王さんと姉は2人だけの生活を始めた。9歳と11歳の家庭である。生活のすべてを自分でやって行かなければならなかった。配給切符を受取り食料や暖房用石炭を買い、衣服を繕った。学校へは行ったり行かなかったりしたが、ほかの人より勉強が遅れているという実感はなかった。いま思うと授業らしいものがなかったからだろう。
苦しい生活のなかでの楽しみは、両親からの郵便物を受け取ることだった。包紙を開くとたいてい手紙と飴が入っていた。だが、飴の半分はネズミにかじられていた。
「私たちのように両親から切り離された生活をした子供は数多い。幹部クラスには両親が『五七幹校』へやられた子供だけを養育する施設もあった。そうした子供時代を過ごしたものには、共通の問題がある。それは学力だけの問題ではない。子供の時無限の愛情で包まれた時間が短いために、かなりの人が情緒が不安定で、怒りっぽい人間になってしまった。他人に対する思いやりが時には仇になることがあったから、知らない人にも親切にするといった感情がない。仕事だって投げやりになりがちだ」
だから、百貨店の店員が品物があるのにないといったり、ものを投げてよこすなどには理由があるのだ、と王さんはいった。王さんだけではない。年配の人はたいてい「文革前にはそんな不躾なことはしなかったものだ」と語った。
文革の聞き取りの中でもうひとつ強く印象に残ったのは、大量の死傷者である。死者の概数すら明らかでない。とりわけひどかったのは漢人以外の民族に向けられた迫害である。いくらかの民族には文献と研究があるが、ここでは私が知った事実の断片だけをいう。
先ず日本人。満蒙開拓団の残留孤児が帰国したとき、日本のマスメディアは彼らを養育した「中国の父母の恩」を語った。だが孤児は売られたりさらわれたりした場合がいくらでもあった。文革中彼らが「小日本(シャオリーベン=日本人ヤロー)」とののしられいじめられることは普通だった。
中国人留学生と結婚してのち、大陸に「帰国」した日本人婦人は文革期にたいてい「日本のスパイ」の疑いをかけられた。この中には「牛棚」(「牛」は牛鬼蛇神、「棚」はぼろ小屋のこと、したがって「牛棚」=代用監獄)に長年投獄され、発狂して亡くなった不幸な例もある。
中国共産党中央の呼びかけに応えて「革命に貢献しよう」と大陸に渡った台湾人は、台湾人であるがゆえに1957年には「右派分子」にされ、文革が始まるとたちまち「国民党のスパイ」になった。
朝鮮人に対しては「勾鞋」「狗尿」とののしるのが普通だった。朝鮮民族の正装では「先の曲がった靴」を履くし、ときどき犬肉料理を食べるからだ。回族に対しては、「お前の祖先は豚だ」といういいかたもあった。
文革期、チベット人に対する漢人の優越感は頂点に達した。たとえばバスの中では漢人に席を譲らなくてはならなかった。譲らないと殴られることもあった。これは植民地朝鮮で日本人が朝鮮人に対してやったことと同じである。
毛沢東が発動した文革ではあるけれども、毛沢東が数千万の人命を手にかけたわけではない。迫害の大部分は普通の漢人が同胞に対して向けたものである。大衆をあおって無辜の大衆を殺させたのは当時の中共指導部である。
ところが大躍進も文革も、その実態はいまだにはっきりとはわからない。そのうえこんにち大躍進や文革の研究は政治的圧力がかかってきわめて困難である。だが中共中央がいくら「中共なくして今日の中国はない」と誇っても歴史上の責任は消えない。それは日本が1930年代以来の日中戦争の戦争責任を避けることができないのと同じである。中共がなければ別な中国があったはずだ。
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