斎藤幸平著『人新世の「資本論」』を読んで

――八ヶ岳山麓から(339)――

 いま評判の斎藤幸平著『人新世の「資本論」』(集英社新書 2020・09)は、地球環境の破壊が回復不能の臨界点に近づいたこと、同時にその解決策として、150年前のカール・マルクス晩期の思想に学ぶべきことを主張した本である。
 「人新世the anthropocene」という言葉は、安定的環境であった「完新世」から、人類の経済活動による過大な影響によって気候環境が大きく変わり、地球環境の破壊が回復不可能な危険な段階に入ったと考えるところから生まれたものだという。この用語は1970年代半ばには非公式に使用されていたが、大気化学者パウル・クルッツェンがそれを独自に再発見して普及したとされている(wikipedia)。公認の地質学用語ではないらしい。

 斎藤氏は言う。「気候危機は、2050年あたりからおもむろに始まるものではない。気候危機はすでに始まっているのである。……異常気象が毎年、世界各地で起きるようになっている。急激で不可避な変化が起きて以前の状態に戻れなくなる地点(ポイント・オブ・ノーリターン)は、もうすぐそこに迫っている」
 氏は、2016年のパリ協定では2100年までの気温上昇を、産業革命以前と比較して2℃未満(可能であれば1.5℃未満)に抑え込むとしているが、この2℃目標でさえもそれを達成するまでに危険が各所に生まれると主張する。
 その通り。すでにオゾン層の破壊が深刻化し、異常気象は各地に現れている。
 ただ、氏が『人新世』危機の先行事例として挙げたなかに、新型コロナ・ウイルスのパンデミックがあるが、これは天然痘やコレラ感染の歴史からすれば必ずしも正しいとはいえないのではなかろうか。

 資本主義は、自国の労働者・農民を搾取収奪し、生態系を破壊することによって成り立っている。同時に自らの矛盾を別のところへ転嫁し、見えないものにする(不可視化)。つまり先進国における大量生産と大量消費の豊かな生活は、途上国の資源収奪と環境破壊、人民の搾取を踏台にしなければ成り立たない。
 我々世代はこれを南北問題といったが、斎藤氏は「犠牲の外部化」とし、途上国をグローバル・サウス(global south)と呼ぶ。

 もう50年近く前になるが、高度経済成長のさなか、畏友中村隆承と私は社会主義の不可能性を議論したことを思い出す。中村は癌と戦いつつこれをノートに書きのこした。
 「(マルクスの)共産主義社会の特徴として『生産力があふれるように流れ出す』という説明は、ソ連や中国では魅力的であるかもしれないが、西欧や日本ではもはや何の魅力も持たなくなった。日本を例にとれば、食品や衣料品でこれ以上の豊富さを必要としないし、目立って不足しているものは安くて広い公共住宅ぐらいのものである」
 「(資本主義であれ社会主義であれ)生産力至上主義は根本的に反省を迫られている。それは生産力至上主義が人間の欲望を駆り立て、生活の豊かさを物質の豊かさに歪曲し、不要不急の物資を際限もなく作り出すことによって、世界の局限された資源を際限もなく浪費するからである。しかもこの浪費は工業化の進んだ国家が低開発国の犠牲において行うきわめてエゴイスティックな浪費である」(『中村隆承 小論集』、私家版、1983)

 このとき我々は、未熟の時期のマルクスを批判したにすぎなかったが、生産力至上主義とそれによる環境破壊への危機感は持っていた。その後中村は農協の、私は指導困難校の日常業務の中に埋没し、それ以上には進めなかった。そして彼は若死にし私は半ぼけ老人になった。
 斎藤氏は、『資本論』『ウェラ・ザスーリチへの手紙』など既刊のマルクスの著作だけではなく、膨大な手紙や抜粋ノートを検討し、マルクス晩期の思想の中に環境危機への予言、脱生産力至上主義・ヨーロッパ中心主義の克服を見出した。本書が多くの読者を得たのは、ここに至るマルクスの思想変遷を豊富な知識と華麗ともいえる研究の引用とともに紹介したからであろう。
 マルクスの思想変遷の解析は、すでにトロツキスト系研究者ケヴィン・B・アンダーソンによってかなり綿密に行われ、その著作の翻訳には斎藤氏も加わっている(K.Bアンダーソン著、平子他訳、『周縁のマルクス』、社会評論社、2015)。

 せまりくる地球環境の破局、それとどうたたかうか。
 これについて斎藤氏は、国連が掲げる持続可能な開発目標(SDGs)などというものは慰めに過ぎないという。「資本主義は既に論理的には持続可能な体制ではない」からである。
 氏の答えは、「無限の経済成長を断念し、万人の繁栄と持続可能性に重きを置くという自己抑制こそが『自由の国』を拡張し、脱成長コミュニズムという未来を作り出すのである」というものである。
 国家や大企業が十分な気候変動対策を打ち出す見込みは薄い。だから共有し利用できる水や土地などのグローバル・コモンズ(共同資産global comons)を(政府ではなく)人々の責任で管理しなくてはならない。氏は来るべき目標をつぎつぎと描く。
 「〈コモン〉の管理においては、必ずしも国家に依存しなくていいというのがポイントだ。水は地方自治体が管理できるし、電力や農地は、市民が管理できる。シェアリング・エコノミーはアプリの利用者たちが共同で管理する。IT技術を駆使した『協同』プラットフォームを作るのだ」
 欧米の市民協同組合の例をいくつも上げて、すでに各地に住宅、エネルギー、食料、清掃などに取り組む市民の活動があるという。
 「『(GDPとは異なる)ラディカルな潤沢さ』を取り戻す可能性はいたるところに存在している。たとえば、ウーバーを公有化して、プラットフォームを〈コモン〉にすればいい。新型コロナ・ウィルスのワクチンや治療薬も、世界全体で〈コモン〉にすべきだろう」「『ラディカルな潤沢さ』が回復されるほど、商品化された領域が減っていく。そのためGDPは減少していくだろう。脱成長だ」

 決め手は協同組合のようである。
 「貧困、差別、不平等を作り出す資本主義に抗して『誰も取り残されない』という観点から協同組合が社会全体を変えていく一つの基盤になることができるのは間違いない」
 ところが、体制が資本主義である限り、「ワーカーズ・コープ(労働者協同組合?)も一歩外に出れば、資本主義市場での競争にさらされてしまうこともある。それゆえ、最終的にはシステム全体を変えなくてはならない」という。
 「システム全体を変える」ということは、一般的には生産様式の変革を意味する。それは、コモンズはもちろん生産手段全体を公有化することなのか。だとすれば、問題は権力である。協同組合レベルでどうにかなることではない。
 また新型コロナ・ウィルスのワクチンや治療薬をどうやって世界全体でコモンズとして管理するのか。ここにも当然国家がかかわる。
 どうやら協同組合を基礎にして、どのように脱成長コミュニズムを実現するかはあいまいである。コースを示さないで「脱成長だ」「システム全体を変えなくてはならない」といわれると、「ラディカルな潤沢さ」も「脱成長コミュニズム」も絵に描いた餅、空想的社会主義と同義になってしまう。
 私としては、地球環境が直面する問題解決の方法をもう少し緻密に考察してほしかった。タイトルの斬新さに魅かれて読んだが、内容に期待したほどの新鮮さは感じられず、むしろ「頭でっかち尻つぼみ」というのが、正直な感想である。
 とはいえ、本書が地球環境危機の切迫性と、マルクス晩期の思想の中に環境危機への予言、脱生産力至上主義、ヨーロッパ中心主義あるいは単線の発達史観の克服を見出し、それを人々に知らしめようとしたことの意味はあった。
                              (2021・07・10)

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