新たなる戦前、歴史認識の深化を! 

著者: 加藤哲郎 かとうてつろう : 一橋大学名誉教授・早稲田大学客員教授
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かと 2015.10.1  国会前から夜遅く帰宅した9月19日、「安倍晋三のクーデターに抗議し糾弾する! 本日未明、参議院本会議は自衛隊が海外で米国と共に 活動できる戦争法を可決し、成立させました。これは、戦後70年の日本国の成り立ちと憲法秩序Constitutionを本質的に変えるという意味で、ある種のクーデターです。クーデターには、通常内戦Civil Warを伴います。4月29日に安倍晋三が日本国総理として米国議会で『日本はいま、安保法制の充実に取り組んでいます。実現のあかつき、日本は、危機の程度に応じ、切れ目のない対応が、はるかによくできるようになります。この法整備によって、自衛隊と米軍の協力関係は強化され、日米同盟は、より一層堅固になります。それは地域の平和のため、確かな抑止力をもたらすでしょう。戦後、初めての大改革です。この夏までに、成就させます』と誓約した時から、情報戦としての内戦は、始まっていました。平和主義・立憲主義のConstitutionを守ろうとする社会運動も、大きく盛り上がりました。しかし内閣支持率を20%台に落とすことはできず、立法府で絶対多数を占める政権党の強行採決を食い止めるまでには、いたりませんでした。残念です。このクーデターに抗して、戦争をしない国に戻すことは、容易ではありません」と書いて、本トップを緊急更新しようと思ったのですが、途中でやめました。一つは、ひょっとしたら参院強行採決を機に社会運動がいっそう盛り上がり、国会前に市民が連日おしかけて安倍内閣辞任にまでいたる可能性が、万が一にでもないだろうかと考えて。いま一つは、逆に8割の国民の疑問と6割の今国会採決への反対があっても、安保法制が成立した以上、運動の潮目は変わり、野党や反対勢力の中でさまざまな総括や展望、場合によったら論争や政治責任追究がおこるかもしれない、それを見きわめようと思いました。前者の反対運動の再高揚は、残念ながらありませんでした。後者については、いろいろ議論が起こっているようです。

かと 9月30日は、安保関連法の公布日でした。6ヶ月以内で施行されます。このことを1面トップで報じたのは『東京新聞』30日夕刊でした。反対運動の高揚期に似たような論陣を張っていた『朝日新聞』は、30日朝刊・夕刊とも無視で、10月1日に小さく報道。マスコミは移り気です。安倍首相の方は、参院強行採決・法案成立直後からゴルフに出かけ、次は国際理解を得ようと国連総会へ。日本の新聞・テレビでは、ロシアのプーチン首相と会談とか、韓国朴大統領と立ち話とか、いいとこ取りの前向き外交のように報じられていますが、世界の注目するシリア難民問題、ウクライナ問題、それに米中・米ロ首脳会談関連では出番がなく、安保理事会常任理事国立候補にも、難民支援970億円にも反応なし。さすがにアメリカとの軍事同盟を強化し世界中にでかけますとはいえないためか、「日本自身がこの先PKOにもっと幅広く貢献することができるよう、最近、法制度を整えました」と控えめの一般演説。それでも日ロ首脳会談では領土問題の交渉には入れず、朴大統領からは一般演説で暗に安保法制を警戒される始末。もちろん中国習近平主席とはすれちがいの握手もままならず。せっかくアメリカに行ったのに、オバマ大統領には会えずにバイデン副大統領への約束履行報告のみ。つまり、安保法制は、日本の外交力低下・平和国家イメージ衰退につながり、自衛隊を日米軍事同盟の傭兵に差し出すだけのものと、受け止められたようです。海外論評で目についたのは、米国の元CIA東アジア担当で保守系シンクタンク・ヘリテージ財団ブルース・クリングナー上級研究員のコメント(東京新聞9月20日)。アーミテージらジャパン・ハンドラーズとは異なり、安部の頭をなでてくれるでもなく、中国との衝突をあおりたて、「安保法制は日本からすれば安保政策の歴史的転換であっても、世界的に見れば、哀れなほど小さい変化にすぎない」というクールなもの。確かに米国の世界戦略にとってはささやかな貢ぎ物で、対する中国にとっても、織り込み済みのものだったでしょう。スーダンになるか、中東になるか、中国沿海になるかは米中欧関係次第ですが、日本にとっては「新たなる戦前」の始まりです。10月1日に防衛装備庁発足、軍需生産と武器輸出の方は「新アベノミクス」に組み込まれて、きなくさい発進です。

かと しかしこの夏には、若者や女性たちや学者たちも国会前に集う、市民の大きな反対運動がありました。終盤にはマスコミがこぞってSEALDsの学生たちをとりあげました。中には「戦後70年、民主主義革命なる」という手放しの礼賛から、「古今東西、警察と合体し、権力と親和的な真の反戦運動などあったためしはない」という辺見庸さんの辛口批評まで、大きな幅があります。本サイトは、衆院特別委で強行採決された7月15日更新から「2015年安保闘争が始まる、民主主義を守れ!」と訴えてきました。いうまでもなく、安保条約改定が衆院本会議で強行採決されてから国民的倒閣運動になった「60年安保」を想起して、「15年安保」の展開を参与観察してきました。後に書かれた歴史書ではなく、当時書かれた井手武三郎編『安保闘争』(三一書房)、日高六郎編『1960年5月19日』(岩波新書)を座右に「15年安保」を見ていると、やはり規模でも歴史的意義でも、「戦後民主主義」と社会運動の後退を、認めざるをえませんでした。それは8月30日の国会前12万人と、60年6月15日33万人というデモ隊の数にとどまりません。運動の爆発的広がりと全国への波及が、「60年安保」は空前絶後のものでした。「15年安保」ではデモの意義が語られますが、「60年安保」には交通ゼネストを含む6月4日の560万人スト、学生の授業放棄、商店の閉店ストがありました。「15年安保」のストライキは、生コン労働者の時限ストくらいでしょうか。よく「60年安保は政党・労組の組織動員で、15年安保は普通の市民が個人として自発的に加わった」といわれますが、それは60年5月19日以前の社会党・総評などの安保改定阻止国民会議、共産党、全学連の前段階の運動についてある程度あてはまっても、5月ー6月のいわゆる「60年安保闘争」には、適切ではないようです。学生たちはクラス討論・寮生活・サークルなど自治活動を通じて、女性たちは職場の労組婦人部・青年部などを通じて問題を議論し、最初にデモに加わる時には、それなりに自発的であり、個人の決断がありました。もちろん日常生活の延長ですから、「母と娘のデモ」も「声なき声の会」も、芸能人や文化人・芸術家のパフォーマンスもありました。「全学連SEALDs」を論じるときには、なぜ大学に自治会がなくなり、クラス討論が消えて、インターネットやSNSで横断的に結びつかざるをえなかったのかを、考慮する必要があるでしょう。もちろん「民主主義ってなんだ」「立憲主義ってなんだ」を討論し体感する若者たちが現れたことは、2001年9月11日以後のイラク戦争反対行動、2011年3月11日以降の脱原発運動を受け継いだ好ましい事態ですが、これがどこまで血肉化されるのか、沖縄や原発再稼働や日中韓連帯、WSF(世界社会フォーラム)などグローバルな社会運動ネットワークに参画できるかなど、今後への展開・持続性を見て評価すべきでしょう。栗原彬編の新刊『ひとびとの精神史 60年安保』(岩波書店)が、史実に戻って、諸個人の主体的選択・自発的参加に即して「60年安保」を見直し、「15年安保」に辛くも受け継がれた歴史の水脈を掘り起こしています。

かと 政治学者として本サイトは、内閣支持率20%台への世論の転換が反対運動の鍵だと論じてきましたが、残念ながらそれは、実現しませんでした。30%台まで落ちた世論調査はありましたが、法案への疑問・反対増大に比して、内閣支持率・政党支持率は大きく動きませんでした。特に8月14日の戦後70年「安部談話」により一時的に内閣支持率がアップしたとき、「15年安保」の社会運動は、「60年安保」と異なる軌道に入りました。丸山真男の60年「復初の説」に相当したのが、15年憲法調査会における憲法学者3人の集団的自衛権違憲発言にあったとすれば、戦後70年「安部談話」でなぜ内閣支持率が下げ止まり、回復しえたのかを、冷静に考える必要があるでしょう。9月8日に自民党総裁選対立候補なしで安倍首相無投票続投が決まったとき、「60年安保」の祖父岸信介とは異なる、首相交代なしの安部クーデターが決定的になりました。これらの政治力学は、与党・野党・国会外それぞれについて、やがて裏資料も発掘され研究の対象になるでしょうが、それらのアクターの行動原理になった歴史認識、あるいは認識の欠如が問われることになるでしょう。「新たなる戦前」にあっては、戦後70年ばかりでなく、20世紀世界の中でのアジアと日本の動き全体を、深刻に振り返らざるをえません。なにしろ冗長な「安部首相談話」は、「圧倒的な技術優位を背景に、植民地支配の波は、十九世紀、アジアにも押し寄せました。その危機感が、日本にとって、近代化の原動力となったことは、間違いありません。アジアで最初に立憲政治を打ち立て、独立を守り抜きました。日露戦争は、植民地支配のもとにあった、多くのアジアやアフリカの人々を勇気づけました」と始まるのですから。これを全面的に論じるには一書を必要としますが、日清・日露戦争期に日英同盟、第一次世界大戦から第二次世界大戦期に日独伊枢軸に入って敗戦、被占領から70年をかけて日米同盟を完成してきた軍事・外交上の軌跡を、忘れるわけにはいきません。いや加害者日本人が世代交代して忘れても、侵略された人々の体験は、受け継がれています。「安部談話」の「あの戦争には何ら関わりのない、私たちの子や孫、そしてその先の世代の子どもたちに、謝罪を続ける宿命を背負わせてはなりません」は、問題の核心です。拙著『日本の社会主義ーー原爆反対・原発推進の論理』岩波現代全書)の末尾で、日本人の戦後平和意識に潜む問題点として、①アジアへの戦争責任・加害者意識の欠如、②経済成長に従属した「紛争巻き込まれ拒否意識」、③沖縄の忘却、④現存社会主義への平和勢力幻想、⑤原爆反対と原発推進を使い分ける二枚舌の「被爆国」、を指摘しました。それらが受け継がれたまま、新たな戦争に入ることをおそれます。

かと この夏読んだ衝撃の書は、アニー・ジェイコブセン『ナチ科学者を獲得せよ! アメリカ極秘国家プロジェクト ペーパークリップ作戦』(太田出版)。ナチス・ドイツのロケット工学者、核物理学者、医学者、化学者ら1600人以上が、戦犯免責と引き換えに秘かにアメリカに招聘され、戦後のアメリカ核開発、生物化学兵器開発に動員された経緯の、米国国立公文書館ナチ戦争犯罪情報公開法機密解除文書を用いた詳しい記録。それも1945年4−6月、ソ連にドイツの最新鋭武器・科学技術が渡らないように、ドイツ降伏後も戦争を続ける日本を最終的に壊滅するためという口実で英米が独占し、米国世界戦略に協力させられた記録です。ソ連側も同様の狙いで、ドイツ人捕虜の科学者・技術者に、核開発・ミサイル・生物化学兵器製造への協力を強いたことは、メドヴェーデフ兄弟の『知られざるスターリン』(現代思潮新社)に出てきます。本サイトで探求してきた日本の核物理学者・原子力ムラ731部隊医学者・医師の米国軍事研究への協力の原型は、どうやらドイツ敗戦時の科学技術冷戦開始の副産物だったようです。この問題に関連しては、8月米国での国立公文書館調査で、シベリア抑留日本人に対する米軍CIC(対敵防諜部隊)の調査記録の中に、日本敗戦後に自決した近衛文麿首相の長男「近衛文隆」のファイルをみつけました。近衞文隆は、56年末日ソ国交回復直前まで戦犯として抑留されていましが、恩赦による全員帰国が決まった直後に不審死していました。近衛文隆「病死」の10日前に、731部隊軍医でハバロフスク細菌戦裁判で禁固20年の刑を受けた柄沢十三夫が、同じ収容所で「自殺」していました。この二人の不審死を、米国側記録は、ラストボロフまで呼び出し、関連づけて記録していました。西木正明さんの『夢顔さんによろしく』工藤美代子さんの『近衛家の7つの謎』、アルハンゲルスキー『プリンス近衞殺人事件』(新潮社)の主題ですが、私の探求してきたゾルゲ事件と731部隊研究、「731部隊二木秀雄の免責と復権」(2015夏版)の延長上で、新しい見方を提示できそうです。10月15日(木)午後神田・如水会館・新三木会、10月18日(日)午後世田谷区経堂・日本ユーラシア協会での講演で、問題提起します。どちらも公開講演会ですから、ご関心の向きはぜひどうぞ。

初出:加藤哲郎の「ネチズン・カレッジ』より許可を得て転載 http://www.ff.iij4u.or.jp/~katote/Home.shtml
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
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