新疆ウイグル地区を旅してきた ― 絶滅危惧民族のいま

――八ヶ岳山麓から(288)――

初めて中国新疆ウイグル自治区を友人たちと訪れた。
出発前から私はかなり緊張していた。中国は、新疆で少数民族約100万人を拘束し収容施設に入れている、という国際的非難を浴びているからである。新疆の回族を除くムスリムは、ウイグル・カザフ両民族そのほかを合わせても1000万足らずなのに、100万が囚人というのは私には考えられないことであった。

この3月中国国務院が発表した「白書」によれば、2014年以降に同自治区で逮捕された「テロリスト」はほぼ1万3000人。また同じ2014年以降について、1588の暴力テロリスト集団を破壊し、爆発装置2025個を押収し、4858の違法な宗教活動で3万645人を処罰し、違法宗教資料34万5229点を押収したとして、「新疆でのテロ対策と脱過激化闘争は、常に法の支配の下に行われてきた」と主張している(AFP・時事2019・3・19)。
つまり、不法なテロがあったから取り締まったというのである。
出発直前、「週刊金曜日(7月5日)」に、「中国・習近平政権下で急速に進む弾圧、在日ウイグル人を救え」と題する水谷尚子氏の調査報告が載った。在日ウイグル人組織には右翼勢力の影響が強いこともあって、この手の報道は通常少ないのだが、水谷記事には、在日留学生らが新疆にいる家族と音信不通になるなど、悲惨な状況に置かれていることが綴られていた。

私たちの旅行は総勢8人だった。新疆ウイグル自治区の政府所在地ウルムチの空港に到着して以後は、戒厳令下さながらに検査された。警備当局は、鉄道駅やバスターミナル、高速道路の途中などで、わが団体の名簿とパスポートを要求し、いちいち顔認証技術によって点検をした。ウルムチからマイクロバスでトルファンに向かった時は、行きに3回、帰り1回の検査を受けた。街路やホテルなどいたるところにある監視カメラの画像も顔認証技術によって分析しているのであろう。
そのうえ、大きな町では城管(都市の治安機関)・公安(警察)・武装警察・特殊警察、さらには一般の警備員と、いたるところ黒い制服の治安要員があふれていた。そのなかにはウイグル人やカザフ人名とチュルク系の顔もあったし、防弾チョッキをつけた中年女性の姿もあった。

たしかに7月は、新疆政府にとって緊張の月である。
10年前の2009年7月5日に200人近い死者を出したウルムチ暴動があったからである。さらに5年前の2014年7月28日にも、タリム盆地のヤルカンドでウイグル人が地元政府庁舎などを襲撃して漢族を主とする死者37人を出し、対する当局は「テロリスト」59人を射殺し、容疑者215人を拘束した(千人単位の殺害があったともいう)。7月30日には、カシュガル市にあるエイティガール・モスクのイマーム(導師)ジュメ・タヒルが朝の礼拝後に刺殺された。同モスクでは1996年にもイマームのアルンハン・ハジ暗殺未遂事件が起きている。この二人は中国政府寄りの高位の人物だった(「八ヶ岳山麓から(113,115)」参照)。

検査、検査のあまりの煩わしさに私が不満を漏らすと、同行中国人が「この5年ほどの間に、警備強化によってウルムチは中国で最も安全な都市に変わったといわれている。警戒は緩やかになり、以前のように『菜刀』まで登録するという厳しさはなくなった」といった。菜刀とは料理用刃物である。これまで取り締まるのは滑稽に見えるかもしれないが、これは過去のテロにおいて民族主義勢力がナイフを使った経緯があるからである。

ウルムチからバスで数時間の観光地「天池」では、タリム盆地のアクスから来たというウイグルの男性グループに出会った。我々が日本人だと知ると、親しげに漢語(中国語)で話しかけてきたが、一人として頬ひげ・あごひげを生やしたものはいなかった。またウイグルやカザフの女性で頭髪から首までを隠して顔を出す「リチェク」をかぶったものもいなかった。
「星と月」、男性のひげ、女性のスカーフなど、ムスリムの象徴とされるものは一切禁止されているのである。観光客らしい女性の中にはスカーフを被った人がいたから、これは新疆のムスリムに限った禁令なのであろう。
ウルムチでは、モスクは3ヶ所しか見なかった。市内最大のモスクは商店になっていた。そこで金曜礼拝が許されているかどうかはわからなかった。私が5,6年住んだ青海省西寧市内には10ヶ所ほどのモスクがあったのだから、ムスリム社会としては異様な風景だった。

北部では思いがけなく、アルタイ地方へ行くことができた。アルタイ地区は中国・モンゴル国・ロシア・カザフスタンの4ヶ国の国境が接するところで、従来外国人は入れなかった土地である。
いわゆるシルクロードのオアシスは、夏は乾燥・酷暑が普通だが、アルタイ地方は冷涼で比較的湿潤、高山と湖、草原と森林に富む風光明媚の地である。このため近年、新興観光地として開放されたらしい。
人々はこの観光スポットの入口までそれぞれの方法で行き、関門で検査を受けると、その先は現地観光会社のバスで運ばれる仕組みになっている。観光スポットはどこも漢人を中心とする観光客で溢れかえっていた。

私たちはアルタイ山中のトゥバ民族村の丸太造りの民宿に泊まった。モンゴル国西部とシベリアのあいだにロシア連邦に属するトゥバ共和国があるが、中国領でトゥバ人に会えるとは思っていなかったので非常に驚いた。私たちが訪れた家族は、老夫婦が馬や牛羊とともに山の放牧地へ行っていて、若い夫婦が民宿経営をしていた。そこで酸味のある発酵バターとパン、乳茶をごちそうになった。
彼らの母語は、ウイグルやカザフと同じチュルク系トゥバ語だから、同行者のモンゴル語は通じなかった。ところが中国ではこの民族をモンゴル族に繰り入れているのである。中国には56の民族があるといわれるが、それは中国政府が民族として認めた数字であって、必ずしも実態を表してはいない。トゥバ人のように行政的に「消された民族」はほかにも存在するだろう。

アルタイ地方の観光地への途上、ヨーグルトを売って学費を稼いでいるカザフ人の小中学生と出会った。彼らはきれいな漢語を話した。聞くところによると、学校では教師が使う言葉も生徒同士の会話も、漢語以外の民族語を使うことはできない。使うと処罰されるとのことであった。
少数民族地域には普通学校と民族学校がある。民族学校では現地の民族語が原則であるが、近年モンゴル人・チベット人地域でも、政府は抵抗を排除して民族学校での漢語による教育を強行している。私たちが会ったカザフ人の少年らは、カザフ文字は小学校の低学年で学習しただけだと言った。
人懐っこいカザフ少年と同行者の会話を聞きながら、私は今年5月にNHKテレビが放送した四川省チベット人地域のルポを思い出した。そこでは、現地テレビ局のチベット人女性幹部が「漢族になること、これがチベット人にとっての進歩です」と語っていた。中国政府が望む少数民族像そのものであった。
こうして少数民族の文化と歴史は継承される術を失ってゆく。少年らが成人した時、カザフ民族はトゥバ民族と同じように、事実上は「消された民族」になり、中国人がいつも持つことを要求されている「身分証明書」の民族籍欄にのみその名を残すことになるだろう。

というわけで初めての新疆旅行で、私は「民族抑圧がある」という対中国非難を否定する積極的材料を発見することはできなかった。むしろ「抑圧があるから抵抗がある」という印象をさらに強くしたのである。

初出:「リベラル21」より許可を得て転載http://lib21.blog96.fc2.com/

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