日野啓三―わたしの気になる人⑧

 その日、作家の日野啓三は、スリムなからだに、うすい黄緑色のワイシャツを着ていた。ネクタイはなかった。おしゃれな人だ。とっさにそう思ったのを、わたしは覚えている。他人への接し方がていねいな人でもあった。ものしずかな口調も印象的であった。数年後、日野啓三からはがきが舞いこんだ。文面は、忘れてはならないものになった。大切に保存していた。こんど、この原稿を書くために読みかえしてみたのだった。
 日野啓三は、1929(昭和4)年、東京都に生まれ、2002(平成14)年、他界している。5歳のとき、家族とともに朝鮮半島に渡った。1934(昭和9)年のこと。敗戦で「内地」の広島県に引き揚げるまで、父親は銀行の支店長をしていた。中年以降、日野啓三は、読売新聞社の外報部記者としてよく外国に出かけた。「外地育ちの自分には『本国』と『外国』との違いがそれほど本質的ではない」という。
 1951(昭和26)年ころから評論を発表する。『幻視の文学―現実を越えるもの』(三一書房)などを著す。日野啓三が小説の世界に移行したのは、それからのこと。42歳のとき、はじめての小説集『還れぬ旅』(河出書房新社)を刊行。しかし日野啓三は、書きあぐねていたようだ。〈ご自分のことを書いたらどうですか〉日野啓三の文学に打開の道を助言したのは、小笠原賢二であった。小笠原は、1972(昭和47)年から書評紙「週刊読書人」の編集部につとめ、文芸欄を担当していた。
 そのごに誕生した作品が「此岸の家」。さらに「あの夕陽」である。日野啓三は、「此岸の家」で、第2回・平林たい子文学賞を受賞する。その翌年には「あの夕陽」で、第72回・芥川龍之介賞を受賞。どちらも、実人生をこまやかに描いて感銘ふかい。後年の、意識の変容を追った虚構小説などよりも、リアリズムの手法で書かれた私小説のほうが、わたしはなじみやすい。いま読んでもたのしめるし、また評価もできる。

「此岸の家」は傑作だとおもう。文芸評論家の平野謙が「軽薄なる男女」を書いていて、これがまた感動的なのだ。日野啓三は「人間実存の本質的なもの」をよくぞ表現していると、平野は感服する。わたしは、『日本現代小説大事典 増補縮刷版』もしらべてみた。わかい研究者が「此岸の家」の「あらすじ」と「みどころ」を紹介していた。だが、さっぱり、読めていない。研究者は、作品のおもしろさがつかめていない。あらためて、平野の読み上手を実感したものだ。
「ああ、これが青年男女の結びつきというものだ」「男が女と結びつくのは思慮分別によるものではない」ものういような歩き方、けだるいような口調など、「非実用的な風情」にひかれるものだと、平野は書く。その女は良家の出身で、自分で食事を作ったことがない。男は、敗戦まで小中学校をすごした韓国に、大学を卒業して新聞記者となり特派員として滞在した。その国の女と結婚して、いま10年が経過する。男の子がいる。最初から困難が予想された国際結婚も、ようやく、ひとつの生活のかたちらしきものができかけていることを、平野は肯定するのだ。平野がこの批評を息弾ませて書く背景には、自身の結婚の歴史への肯定がある。プロレタリア文学運動のさなかに結びついた妻とのギクシャクした関係も、いまようやっと落ちついた、という感慨。平野の40年の歴史の変化については、拙著『平野謙のこと、革命と女たち』(社会評論社)のなかに書いた。
 たしかに、日野啓三は、彼女との関係を持続している。しかしその経緯のなかで、女にたいする後ろめたさみたいなものを、背負ってはいないか。
「此岸の家」のなかに、こんな場面がある。「おまえはアメリカに行くために、ぼくと一緒になったというわけか。ぼくはおまえと一緒に住むために結婚したんだぞ」女は、男がアメリカへ特派員としていくことを夢みていた。男にやりかえす。「そんな偉そうなことを言うけど、あんたはわたしみたいに、肉親も友だちもみな別れてきたわけじゃない。食べ物だって、言葉だって、わたしは棄てたのよ」。
 ある編集者がこんな場面を目撃している。〈ドストエフスキーでもあるまいし、赤ペンなんぞ入れている〉と、妻が、自宅で作品のゲラを校正する日野啓三をからかう。〈おやじ、おれのめしを作れ〉と、ひとり息子が父親にいう。
 日野啓三の作品といえば、さっと、わが脳裏にうかぶ場面がある。男の手に提げた、スーパーのビニール袋からのぞいたネギの先端。「冥府と永遠の花」のなかに描かれる。そろそろ鍋物の季節だ。病院帰りの男は、スーパーに寄る。1000円以上するホウボウを3人分、鍋物用に切ってもらう。白菜、まいたけ、春菊、ネギ、焼き豆腐、ポン酢も買う。治療中の身にビニール袋はおもいが「弾んだ気分」でスーパーを出る。
 編集者のエピソードと作中の場面とをかさねれば、日野啓三は、家庭内で妻子に主導権をにぎられていた、と想えてくるではないか。「非実用的」で、自己を主張する女のもとで耐えている男。食品などの買い物は毎夕しているという。わたしは学生時代、下北沢に住んでいた。日野啓三が小田急線の踏切をわたり代田の住まいへもどっていくそのコースが、目にうかんでくる。その姿さえ想像できるようだ。
「あの夕陽」は、日野啓三自身の初婚に取材している。妻は炊事や洗濯をいやがらないでする。3年がたち、男は「自分がいよいよダメになるような恐怖」をいだく。実用的な女だが、男には生きる手ごたえが感じられないというのだ。敗戦後、投げたような生活をしてきたけれど、もう一度生きなおそうと思っている。15年ぶりに訪れたソウルで別の女と出会った。その女を撮影したカラー・フィルムのコマを、妻は、日にかざしつつ裁ち鋏みで裁断していく。不意の音が、男のからだにつき刺さってくるのだった。受賞作2編を読みくらべれば、男の心情は、より鮮明になってくるにちがいない。

 日野啓三は、小笠原賢二の出版記念会に現れた。小笠原は、初の著書『黒衣の文学誌』(雁書館)を刊行した。会は神楽坂の料理屋で行なわれた。その日は、6月だというのに暑かった。日野啓三は、初対面の小笠原夫人へ、畳に手をついてあいさつしていた。祝辞では、〈がっしりと受けとめてくれそうなおくさんで、安心しました〉と、のべた。小笠原の文芸評論家としての出発を、日野啓三は、ユーモアをまじえて祝ったのだ。小笠原はそのご、短歌評論の分野にまで活躍の舞台をひろげ、独自の批評を展開したが、2004(平成16)年に他界した。
 日野作品の書評を、わたしも発表している。8つの短編を収めた『聖岩(ホーリー・ロック)』(中央公論社)。掲載紙の「信濃毎日新聞」を日野啓三に送った。わたしは25年間、同紙の書評を担当していて著者たちから礼のはがきをもらっている。なかでも日野啓三のはがきは、格別うれしかった。こんなことが書かれていた。書評の文章を読むと、どこまで読んだかわかる。『聖岩』を「深い焦点深度で」書評している。「形而上的で垂直な魂の視線を読みとれる女性がこの国にも現れたのですね」かけだしのわたしにたいする、日野啓三の激励であった。その拙評は、『本たちを解(ほど)く―小説・評論・エッセイのたのしみ』(ながらみ書房)のなかに収録してある。
 この拙著についても、日野啓三は、はがきをくれた。自分は書評の仕事を10年以上つづけている。「何が書いてあるかだけでなく、どう書いてあるかをもっと書けば、もっとよくなるでしょう」日野啓三がなくなる4年前のアドバイスだ。「どう書いてあるか」を考察する。どれほど、わたしは実現できただろう。

 1990(平成2)年、日野啓三は、腎臓がんが見つかり、手術入院した。このさき、膀胱、鼻腔、大腸などのがんも患っている。他界するまでの10年あまり、作品の発表は継続していたが、その間はがん転移とのたたかいであった。この国の世紀末は、オウム事件や神戸の大震災などがあいつぎ、経済不況が進行する。日野啓三は、『梯(きざはし)の立つ都市(まち)冥府と永遠の花』(集英社)などの虚構小説集を刊行した。『聖岩』のなかに収録された「火星の青い花」は、わが心に残っている。入院中の見舞い品のなかにあったリンドウの青い花。転移など不安な精神状態にある意識を、そっと、別の次元に切りかえてくれる。砂漠のなだらかさよりも、いまは、意識をつき刺してくるような、鉱物的な荒々しさに親しさを感じているともいう。人の意識の変容を象徴的に描いていて興味ふかい。
 日野啓三は、環境問題にも関心をいだいていたのであろう。1997(平成9)年、ハワイ大学の東西センターで行なわれた、文学・環境学会のシンポジュームに出席している。妻を伴っていた。〈日野さんは、ヘビースモーカーでしたよ〉アメリカ文学の研究者で、現在は秋田県立大教授の高橋守がいう。日野啓三はパーティーをぬけだしてきた。外の芝生の上にあぐらをかいて喫煙する、高橋と野田研一(現在は立教大教授)の雑談にくわわる。日野啓三は、作家開高健のことを〈あいつは前線なんて行ってないぞ〉と話したそうな。〈作家って、大声で話すとおもっていたら、日野さんは、大学教授ふうのソフトトークでした〉とも、高橋は回想するのだ。日野啓三には、『ベトナム報道―特派員の証言』(現代ジャーナリズム出版会)がある。戦争と動乱をとおして人間存在の根源をみつめたもの。
 日野啓三の、今から30年前に書かれたエッセイが、わたしには気になっている。「短歌現代」に発表された「新しい自然の中を」。都市は「体が震えるほど美しい」その都市のなかで、狩猟時代の長い経験と知恵が甦るような気がしている。都市は人間を孤独にする。孤独な猟人がビルという岩山の間をさまよい、アスファルトという荒土を吹き過ぎる風の気配を聴き、コンクリートの天井という天蓋の彼方に星々の黙示を読む。このように日野啓三は書く。さらに、それを可能にするためには、「鋭敏な知覚」と「しなやかな神経」と「豊かな透視力」が必要だ、とも書くのである。
 日野啓三は、ときおり、眼前1メートルの何もない空間そのものを見つめる訓練をしているとも、このエッセイのなかで明かしている。その延長線上に、日野文学の虚構小説は生まれているのかもしれない。(2015・9・3)

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