日韓関係、浅井基文氏の論文―圧倒的な説得力

26日のリベラル21に書いた「唯一の隣国との友好関係を取り戻そう」を読んだ友人が、元広島平和研究所所長の浅井基文氏がご自身のWebサイトに掲載された論文を転送してくれた。圧倒的な説得力に納得し、もちろん同感した。「多くの方に読んでいただけたらうれしいです」と書かれているのに甘え、以下に転載させていただきます

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日韓関係を破壊する安倍政権
2019.09.21.
 8月25日付のコラムで、9月に韓国であった会合で読み上げる原稿「日韓関係を中心とした朝鮮半島情勢」を紹介しましたが、最近ある集会でこの原稿を踏まえたお話をする機会がありました。ある雑誌の編集者がその「起こし」を送ってくれて若干手を入れたのが、以下に紹介するものです。日韓関係の現状に関わる私の安倍政権そして日本の政治のあり方に対する基本的判断を示しています。多くの方に読んでいただけたらうれしいです。

■日韓関係悪化の全責任は安倍政権にある
いわゆる「従軍慰安婦」問題と徴用工の問題を契機として日韓関係がおかしくなりました。徴用工の問題について、安倍政権は「過去の個人請求権は1965年の日韓請求権協定ですべて解決済み」と言っています。私は、25年間外務省に勤務し、その中でアジア局や条約局に勤務したことが合計9年間ありましたので、1965年日韓請求権協定で解決済みとしてきた日本政府の主張は理解しています。すなわち、当時は個人の請求権は国が肩代わりして解決することができるというのが国際的な理解であり、日本が独立を回復したサンフランシスコ平和条約における請求権問題に関する規定もそういう考えに立っています。1965年に日本が韓国との間で請求権の問題を解決する時にも、サンフランシスコ条約以来の国際的な理解に基づいて事を処理したということです。それは日本だけの主張ではなく、世界的に認められていました。しかし、その後、国際人権法が確立することによってこの主張・理解は崩れたのです。
文在寅大統領も「国際的な人権、人道の考え方が確立した今日では日本の主張はおかしい」と言っていますが、具体的には国際人権規約B規約を見て頂ければわかります。これに日本が加盟したのは1978年ですが、私はその年には条約局国際協定課長という立場にあり、この国際人権規約の国会承認の事務方の先頭に立っていました。ですから、私はこの条約に非常に思い入れがあります。ところが、今回の日韓の問題を議論する時に、誰も国際人権規約のことを言わないのは、私からするとまったく理解できません。
国際人権規約B規約第2条3項は、「この規約において認められる権利又は自由を侵害された者が、公的資格で行動する者によりその侵害が行われた場合にも、効果的な救済措置を受けることを確保すること」と規定しています。この規約において認められる「権利」や「自由」を「侵害された者」とは、従軍慰安婦問題や徴用工問題との関わりでいえば、第7条と第8条3項(a)が重要です。第7条は「何人も、拷問又は残虐な、非人道的な若しくは品位を傷つける取扱い若しくは刑罰を受けない」と規定しています。これはまさに「従軍慰安婦」にぴったり当てはまります。また第8条3項(a)には、「何人も、強制労働に服することを要求されない」とあります。これがまさに徴用工の問題にあたるのです。
ですから、元「従軍慰安婦」の方々、徴用工の方々は日本国に対して効果的な救済措置を講じるように要求する権利があることがはっきり言えるのです。この国際人権規約をはじめとする国際人権法が確立した後、世界各国では過去にそれぞれの国が行った国際人権規約に違反する行為についての救済措置が講じられました。オーストラリア、カナダ、ニュージーランド、アメリカでは先住民族に対する謝罪や補償が行われました。アメリカは第二次大戦中に日系アメリカ人に対して行った隔離政策を謝罪し、補償しました。よく知られているものとしては、第二次大戦中の強制労働問題に関してドイツが作った「記憶・責任・未来」基金があります。そのように、国際人権規約をはじめとする国際人権法が確立されてから、各国で過去に国が行った行為についての謝罪や補償が行われるようになったことを考えると、日本も従軍慰安婦や徴用工の人たちに対して、謝罪し、補償しなければいけないことは当然です。
もう一つ重要なことは、日韓請求権協定や日ソ共同宣言に関して、国が放棄したのは個人の権利を保護する外交保護権であると、日本政府自身が明確にしていることです。個人の請求権自体は協定によっても消滅することはないのです。この点については、1991年8月27日に国会で外務省の条約局長がはっきり答弁しています。そういう国会答弁がなされたのは、国際人権規約ができてからの諸外国の実践に鑑みて、もはやサンフランシスコ条約当時の主張・理解を維持することはできないということで、政府が軌道修正したのだと考えます。
元徴用工の人たちが韓国の裁判所に訴え、韓国にある日系企業、特に強制徴用をした新日鉄や三菱重工業の財産を没収して、それを権利救済に充てることを求めたのに対して、韓国大法院はそれを是とする判決を出しました。それは1991年の外務省の国会答弁からしても抗弁できないのであり、認めなければいけないと思います。しかし、1991年に政府ははっきり答弁しているにもかかわらず、今回の問題が起きてからの安倍政権はだんまりを決め込んでいます。これは非常に不誠実であり、許されないことだと思います。
いずれにしても、国際人権規約の関連条項がサンフランシスコ平和条約で理解されていた「国が個人に代わって請求権を放棄できる」という伝統的な理解をひっくり返したのです。それが大きなポイントです。みんな人権は大事だと言いながら、国際人権規約をすっかり忘れていることは、非常に遺憾なことだと思います。それをまず踏まえていただきたいと思うのです。
さらに、安倍政権が報復として韓国をホワイト国から除外するとか様々なことをしましたが、それを根拠づけるものとして政府は「安全保障上の例外条項を適用した」と言っています。確かに、GATT(関税と貿易に関する一般協定)という貿易の自由化について定めた条約の中に、「安全保障上の理由で、貿易の自由の原則から逸脱することができる」という規定が第21条(b)(ⅱ)にあるのです。ただ、「安全保障上の例外」というのは、本当に安全保障上の重大な事由についての例外です。ところが安倍政権が言っているのは、韓国が日本から輸入した3品目を朝鮮に横流しした疑いがあるという非常に曖昧模糊とした理由であり、しかも明確な根拠を示しているわけではありません。
ちなみに安倍政権は、一切の条件なしに金正恩と話し合いに入りたいと言っていますが、安全保障上の例外条項を適用して韓国を制裁するということは、有り体に言えば、「朝鮮に横流しした」と言っているのに等しいですから、朝鮮は非常に怒っています。「俺と無条件で話し合いをする用意があると言いながら、結局俺を敵扱いしているじゃないか」ということです。ここにも安倍政権の非常に場当たり的で、お粗末極まりない対応があるのです。
以上を踏まえれば、韓国には100%の理があり日本には100%の非があります。安倍政権が韓国に対して居丈高に振る舞うことは許されないと思います。

■日韓関係悪化の根本的な責任は主権者・国民にある
このように非常にでたらめなことをしている安倍政権ですが、そのでたらめさをほとんどの国民が認識していないことが大問題です。むしろ、大波に流されるように、多くの国民が「韓国けしからん」「文在寅けしからん」と言って安倍政権を支持しています。今や文在寅政権の法務大臣の任命などおよそ日本と関係のないことでも、四六時中韓国をバッシングしなければ気が済まないという異様な雰囲気がありますが、このおかしさに誰も気が付いていないのです。
どうしてそうなってしまったのかといえば、日本国民の意識は政府の政策によって支配される傾向が非常に強いからです。そうなってしまう原因として、私は主に3つの要因の働きがあると思います。
その一つは、丸山眞男という日本政治思想史の大家が、政治意識、歴史意識、倫理意識における『執拗低音』と言っていますが、外務省での私の実務体験から言っても、丸山眞男の「執拗低音」ほど日本政治の本質を捉えている言葉はないと確信しています。
政治意識とは、一般的に政治は統治することであり上から下への行動ですが、日本における政治意識とは「捧げる」「奉る」という意味合いが強いということです。つまり、「お上」意識が非常に強く、その裏返しとして下の者を見下すという「上下」意識が出てくるのです。
歴史意識とは、今・現在のことしか意識しないという時間についての意識です。丸山眞男は万葉集、古事記まで遡って、いろいろ時に関する日本人の意識を追究したのですが、「つぎつぎになりゆくいきほひ(次々になりゆく勢い)」という言葉でまとめています。つまり、常に今しかないのです。過去は干からびたもの、未来はどうなるかわからないもの、したがって今だけが重要なのです。ですから私たちは刹那的であり、一度できた現実を受け入れてしまう傾向が非常に強いのです。丸山眞男はそれを「既成事実への屈服」と表現しています。既成事実の中でも、特に権力が作り出した現実に対して私たちは頭を下げてしまう傾向が非常に強いのです。
もう一つは倫理意識です。日本人に忠誠心がないわけではないのですが、何に対する忠誠心かが問題です。西洋でも中国でも真理とか正義、あるいは一神教でいう神とか、マルクス主義でいえば歴史の法則とか、客観的に存在するものに対する忠誠心が倫理意識としては支配的です。ところが、日本の政治思想にはそういう普遍的なものがありません。あるのは、上の者や集団に対して忠誠を誓う集団的帰属感です。
こうした政治意識、歴史意識、倫理意識がすべて重なって、古代から今日に至るまで貫徹しています。明治維新以降はそれが天皇中心主義となり、第二次世界大戦後は天皇がアメリカに代わって、アメリカ中心主義で生き続けているのです。
私は、丸山眞男の3つの意識にプラスして、もう一つ「天動説的国際観」とでも言うべき対外意識について考えています。つまり、日本人にとっては常に日本が中心で、世界は日本を中心にして動いていると思っているのです。他の国と揉め事が起きれば「自分が悪いはずがない。悪いのは相手だ」となるのです。まさに今回の日韓問題ではそれがものの見事にあらわれています。以上、この4つの意識の働きが、権威・権力に弱くその意のままに動いてしまう国民の行動パターンを形作っていると思います。
次に、二つ目の要因です。それは、アメリカの対日占領政策転換以後、政府・自民党が一貫して戦争責任を否定する歴史観に基づいて歴史教科書の書き換えに取り組んできたことです。私は外務省を辞めてから明治学院大学で日本政治の講義を受け持ち、学生たちからの反応をメモでもらっていました。そこで愕然としたのは、ほとんどの学生が検定を経た歴史教科書に書いてあることを歴史の事実として受け止めていることです。アジアに対する侵略戦争や植民地支配を否定し、従軍慰安婦はなかった、重慶大爆撃や南京大虐殺もなかったと受け止めているのです。
その学生たちは今では40歳代後半です。ということは、40歳代後半以下の世代は間違った歴史認識で染め上げられているのです。良心的な教師に出会った子は歴史の事実を教わり正しい問題意識をもっていますが、それは圧倒的に少数です。そのために、今のような日韓の紛争が起こると「韓国は間違っている、けしからん」となり、安倍政権を強力に下支えする国民的支持基盤となるのです。これが2つ目です。
三つ目の要因は、「大本営の情報」を垂れ流すマスメディアです。大本営とは、要するに安倍政権です。私が外務省にいた時に自ら目撃したことをお話します。1960年代後半から、臨調など政府主体の諮問会議がいろいろできて、そこにマスメディアの代表も呼ばれるのです。初めの頃は、「私たちは内部から権力をコントロールする」と言っていたマスメディアの人たちが、結局ミイラ取りがミイラになって、大本営情報を垂れ流しするようになりました。今では情報入手源が多様化しているのに、マスメディアはこぞって政府の情報を垂れ流しています。ネット情報で逆のことを言う人がいても、結局はコンセンサスとしてはマスメディアの流す情報に集約されていくのです。
もう一つの重要な問題は、日韓関係、日朝関係を判断するときの国民のモノサシは何か、という問題です。日韓関係に関して言えば、1965年の日韓基本条約・請求権協定は、アメリカが対アジア戦略をスムーズに行う必要から、日本と韓国の関係正常化を推進したものです。黒幕はアメリカでした。当初、日本政府は嫌々だったのですが、最終的には「請求権をチャラにする代りに有償無償の合計5億ドルの金をやるから文句を言うな」、としたのです。これが私の言う「1965年日韓体制」です。ところがこの「1965年日韓体制」が圧倒的多数の国民のモノサシ(判断基準)になってしまっており、安倍政権が「請求権問題は1965年に解決した」と言えば、「そうだ!」となってしまうのです。しかし、本当にそれが日韓関係のあり方を判断する出発点として妥当なのかを考えなければなりません。
それから、日朝関係はもっと悪いのです。1945年以降、アジアは米ソによって二分され、アメリカにくっついた日本は、ソ連の同盟者とされた朝鮮を敵視してきました。アメリカの冷戦政策が私たちの頭の中に入り込み、私たちの考え方を染め上げたのです。しかし、そもそも朝鮮を敵視する発想は正しいのかを考えなければいけないのです。
そこで、私たちはどうしたらいいのかということですが、一つは私たちの意識のあり方を根本的に変える必要があります。つまり、政治意識、歴史意識、倫理意識、そして対外意識という4つの意識を根本的に清算するということです。もう一つは、私たちの頭の中に染み込んでいる冷戦的発想の元凶であるアメリカとの関係を考え直さなくてはいけないということです。私はそれを「開国」という言葉で表しています。丸山眞男にも「開国」という大論文があるのですが、これは私なりに作り直していることをお断りします。私は、日本人が自分の精神構造・冷戦的発想を変えるには3つの方法があると思います。それは、精神的な開国、物理的な開国、そして強制的な開国です。
「精神的開国」とは、今の日韓関係について考えればわかると思います。韓国の国民や文在寅政権は、日本に対して人間の尊厳と基本的人権に立脚して物事の良し悪しを考えています。人間の尊厳や人権の尊重を日ごろ言っている私たちが、韓国の人たちの主張に、どうして耳を傾けないのでしょうか。人間の尊厳や基本的人権は何もの物にも勝る価値であるという考えが、私たちの心の奥底までストンと落ちているのであれば、韓国国民がなぜ日本に対して怒っているのかを見極めることができるはずです。
韓国のハンギョレ新聞にコ・ミョンソプという方が、「正直であることもできず自己省察もなく民主的でもない国が、人類普遍の共通感覚が認める『美しい国』になることはできない」と書いています。そして韓国国民が行っている安倍反対闘争がもつ意義は、何も韓国の私憤ではなくて超国家的意義があると言って、決して韓国だけのことを考えた議論ではないことを主張しています。韓国の国民がそういう問いかけをしていることに虚心坦懐に、謙虚に耳を傾けること、それが私の言う「精神的開国」です。
二番目は「物理的開国」です。これは、端的に言えば日本が多民族国家に生まれ変わることです。ありとあらゆる文化的、歴史的、精神的、宗教的背景をもった人たちが大量に私たちと接することになれば、私たちは否応なしに異文化と接触し、切磋琢磨しなければなりません。そうすることによって、私たちの4つの意識がいかに世界でも稀でおかしな精神構造なのかがわかってきます。精神的開国と同時に物理的な開国をして、自分たちのおかしさを、他者という鏡に照らして知ることになります。日本は多民族国家になるという荒療治を通じて今の精神構造を打開することが不可欠です。
私が失望したのは、安倍政権が「外国人労働者受け入れ拡大」の法律を推進したとき、野党がまともにその考え方を批判しなかったことです。安倍首相にとって、日本が多民族国家に生まれ変わることは彼がもっとも大事にしている「国体」を突き崩すことに直結します。彼にとっては、日本の人口が減少し、衰退していくことよりも「国体」を守ることの方が大事なのです。彼が「外国人労働者の限定的な受け入れ枠拡大」に執着したのはそのためです。野党のどれ一つとしてそのことを問題視せず、日本社会全体を見てもそのことに気がつかなかったということは、日本の「たこつぼ」的本質を如実に示しています。
西側諸国の多くが、大量の移民を受け入れることによって初めて人口が拡大再生産できる1.75%以上の人口成長率の水準を維持しています。大量の移民、難民を受け入れることにより、私が申し上げている「開国」が可能になると同時に、国家としての拡大再生産もできるのだということを真剣に考えていただきたいと思います。
私が最も望んでいないのが三番目の「強制的開国」です。それは、端的に言えば日本がもう一度1945年8月15日に逆戻りすることです。第二次大戦の結果を受け入れようとせずに、人間の尊厳や基本的人権を無視する今の安倍政権の異常さについては、アメリカの中にも「おかしい」と言う人たちが出てきています。仮に、安倍政権がアメリカを怒らせることになったら、アメリカはポツダム宣言をともに作った中国、ロシアと再び手を組んで、日本に対して「いい加減にしろ。ポツダム宣言に戻れ」と動く可能性は確実に出てくると思います。それは戦わずして1945年8月15日に戻ることです。その時、私たちは再び強制的な開国を強いられ、1945年8月15日の時よりも冷厳な現実が押し寄せます。それは本当にあってはならないことなので、私たちは精神的開国、物理的開国によって日本を作りかえ、われわれの精神構造も作りかえていくことを考えなければいけないのだと思います。

■アメリカの北東アジア政策からの決別
アメリカは、トランプ政権になって随分変わりました。勝つか負けるかのパワー・ポリティクスという伝統的な政策という点では、今までの政権と違いはないのですが、オバマ政権まではイデオロギーや思想による勝つか負けるかでした。しかし、トランプはそろばん勘定における勝つか負けるかです。トランプは「アメリカは日本を守ってやっているのに日本はアメリカを守ってくれない」とか馬鹿げたことを言っていますが、日米軍事同盟をやめるとは口が裂けても言いません。アメリカがアジアで威を張るには、日本という不沈空母がなければどうしようもないからです。日本という同盟者がいなくなったら、アメリカはグアム、ハワイまで後退しなければなりません。それは対アジア戦略の崩壊ですから、アメリカは誰が政権を取ろうと日本を離そうとしないでしょう。
逆に言えば、アメリカは自分のために日本を飼い殺しにしているのです。そのアメリカに対して、内閣府の調査によれば、75%以上、つまりの4人に3人の日本人が好感をもっているのです。これは本当に不思議なことです。今のままでは私たちの対外政策、平和政策、安保政策はどうあるべきかという原点に戻れないのです。その原点は何かといえば、アメリカ的な勝つか負けるかのゼロ・サムのパワー・ポリティクスに立つか、それともウィン・ウィンでともに勝つ脱パワー・ポリティクスという選択をするのかということです。その選択が21世紀において迫られているのです。
日本に当てはめれば、ゼロ・サムのパワー・ポリティクスを具現しているのは対日平和条約であり、それと同時に結ばれた日米安保条約、今でいう日米軍事同盟体制です。一方、ウィン・ウィンの脱パワー・ポリティクスの思想を体現しているものは1945年のポツダム宣言であり、それを元に作られた日本国憲法です。しかし、日本国民の3人に2人が「安保も憲法も」と考えています。憲法は変えたくないが安保も必要という、これほど自己分裂している考え方はありません。この二つは両立するはずがないのですが、そこをはっきりさせず「現実」を追認するのです。丸山眞男の言う「既成事実への屈服」の典型例です。これではいけないと思います。
私は、日本の原点はポツダム宣言であり日本国憲法であるという立場に立っています。アメリカへの追随から決別する上でも、私たちはポツダム宣言と日本国憲法に回帰しなければいけないと思います。日韓関係に関して言えば、戦後の冷戦構造にどっぷりつかるのではなく、脱冷戦の構造にもっていくことです。1965年の日韓体制はまさにゼロ・サムのパワー・ポリティクスの産物ですから、その体制から脱却しなければいけません。韓国側が呼びかけている人間の尊厳と基本的人権の尊重を基礎とする新日韓体制を構築するべきです。
ちなみに、習近平の中国がやろうとしている外交は、アメリカのパワー・ポリティクスを否定して、ウィン・ウィンの民主的な国際秩序づくりです。中国のことを強権国家で覇権国家だと思っている日本人が結構多いのは、パワー・ポリティクス的な発想に染まっている証左です。平和憲法に立脚するわれわれの平和外交と、中国の今やろうとしている外交の方向が一致しているならば、それと共同してみなければ始まりません。それでうまく行ったら、こんな嬉しいことはないのです。
今のアジアは「米・日」対中国です。これが米対「日・中」となれば巨大な地殻構造の変化が起きます。朝鮮半島に関して言えば、今は「朝鮮+中露」対「韓国+米日」です。それが米対「朝中露+日韓」になれば勝負ありです。そういう可能性がわれわれの目の前にあります。取るか取らないかは私たち次第です。主権者・国民である私たちには何が求められているのでしょうか。それは皆さんご自身で考えてください。

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初出:「リベラル21」より許可を得て転載http://lib21.blog96.fc2.com/

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