日馬富士問題に垣間見えるネオ・ナショナリズムの影

 東南アジア・南アジアの国々では、アイデンティティ政治と呼ばれる民族・宗教的な排外主義の流れが一段と強くなっています。インド、ミャンマー、インドネシア、スリランカ、バングラデッシュなどでは、外資の流れが堅調で経済的には良好であるにもかかわらず、貧富の差の拡大もあって社会内に民族や宗教的差異にそって断層が走り、不安定化の要因になっています。「多様性のなかの統一」どころか、宗教的民族的人種的な差異に基づく分裂と断絶が露わになりつつあるのです。新自由主義型の経済運営・経済構造の問題性が背景にあると思われますが、それについては今後ゆっくり論じてみたいと思います。
 さて、テレビのワイドショウで連日取り上げられている「日馬富士暴行事件」ですが、どうも議論の方向づけに政治的な意図が見え隠れしているように思われます。私は事件の背景に「マッチョなモンゴル文化」―チンギスハンの伝統に連なる勇猛な騎馬民族文化―の問題があり、日本文化に同化しつつも、危機に際して同化しきれない地金の部分が現れたのではないかとみていますが、ここでは触れません。
 フジテレビを中心に貴乃花寄りの取り扱い方が目立ってきました。しかし常識的に考えて、協会から脱退する意思を固めているのならともかく―それはそれでまた潔さが必要です―、貴乃花のあまりに理不尽な態度は幹部組織人としては失格と言わざるを得ません。相撲は強かったかもしれませんが、社会人組織人としての余りの常識の欠如に驚きを禁じ得ません。しかもその態度を正当化する根拠に相撲道を持ち出してきています。しかしそこには相撲の歴史の神事としての側面のみ強調して、(興行師やヤクザが絡む)興業としての側面を無視する一種の歴史修正主義があるように感じます。神道行事としての一方的強調は国粋主義につながり、そこから外国人、つまりモンゴル人への排斥感情が生まれることになりかねません。
 大相撲の発展には現代スポーツとしての在り方の自覚が必要です。暴力の根絶もこの視点からとらえるべきでしょう。日本人からハングリー精神が失われたための入門者が少なくなったと言います。しかし相撲に勝るとも劣らずハングリー精神が必要なプロボクシングは、いまかってない隆盛のときを迎えています。だとすれば、日本人の若者に忌避感情を抱かせてしまう相撲部屋の弟子養成の在り方に問題はないのでしょうか。貴乃花親方の態度は、対協会だけでなく対弟子への態度も問題ありでしょう。要はいい大人である貴乃岩が独立した人格として扱われていないのです。いわば貴乃花親方が弟子の生殺与奪の権を握る家父長的態度を崩そうとしないために、今回の事件で最大の被害者である貴乃岩は、貴乃花親方によって自由な意思表明を妨げられているのではありませんか。勘ぐれば、対協会執行部に対する権力闘争に貴乃岩を手駒として利用しているようにもみえます。貴乃岩は、暴力と抑圧による二重の人権侵害に会っていると見るべきではないでしょうか。なによりも格闘技である相撲で、数か月のブランクができることは28歳という年齢からしても力士生命に関わるであろうことは明白です。貴乃岩が親方と協会とモンゴル社会との三重の板挟みにあって、進退窮まっている状態であることも予想されます。貴乃岩を窮状から救い出すためには、世論の一層の高まりが必要でしょう。
 白鵬への脅迫状などは断じて許せません。この背景にはヘイト・スピーチにつながる外国人排斥の強まる風潮があるのです。外国人は労働力として利用はするが市民的権利は制限する、そういう安倍政権の姿勢ともあいまって、杞憂かも知れませんが、日本はもと来た道に戻りつつあるのではないかと不安が込み上げてくるのです。復古勢力とのせめぎ合いに負けないためにも、足腰を鍛え下から低く当たっていく努力が求められています。
2017年12月14日 

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