書評  カミとアニミズム

 岩田慶治はアニミズム世界と空海の密教世界が似かよっていると指摘している。アニミズムとは自然の万物のうちにひそむ精霊をカミとして信じている人間の状態である。その世界では鳥や獣や河川の中に精霊がひそんでおり(擬人化)、自分もいつでもこれらの自然物に溶け込んでいける精神のありようである。山には山の神がおり、また岩のカミ、洞窟のカミ、水のカミ、蛇のカミらが出会いがしらに偶然あらわれる。一方、シャーマニズムとはシャーマンが神懸りになり、トランス、エクスタシーをつうじて、天上の神の意思と言葉を伝達する宗教である。選ばれた霊能者の祈りに応じて、その激しい動作や叫びとともに神は出現する。そうかとおもうと、ヒンドゥー教、ギリシャやエジプトの古代宗教のように、多くの神がその場その場であらわれ、それらを人間が順番に祈念する多神教の神もある。そして、これらの宗教の歴史的にいきつくところ、いつでもどこでもただ一人の神を信じるキリスト教、ユダヤ教、イスラム教のような一神教の神にいたる。
 『カミと神』という本の中で、岩田は宗教世界の座標をつくり、アニミズムのカミからはじまってシャーマニズム、多神教、一神教の神までの各段階の進化・変遷をあとづけた。その上で、今までの文化人類学はカミから神への方向のみを探ってきたが、これからは神からカミへと方角を逆向きに注視しなければならないとした。なぜなら、人類の原基ともいえる生き方は「コスモスの思想」と呼ばれ、人と自然が一体になっている「宇宙人間」としてのカミの世界であり、一神教を信じた現在の西欧文明世界における「機械人間」からの脱皮を図るべきだと主張しているからである。
 そこで、彼はカミの世界を捜し歩いているうちに、それが高度な仏教思想である空海の密教の世界と地続きであることに気づく。アニミズムの空間認識が真言密教と同じ性格をもつと考えたのである。アニミズムのカミは「モノ」がそのまま生きた全体として登場するカミである。その秘密は、たとえば数字の数え方にあらわれる。アニミズムの場合、一とは二、三へ続く抽象的な数列なのではない。三は三つ葉のクローバーであり、四は人間の手足というように、数字がひとつの「モノ」自体と不可離なのである。だから、一は単に一自体のことをあらわしているのであり、二とは二の「モノ」以外ではない。
 そして、一と二は、それ自身をあらわしているものとして区別をつくると同時に、「モノ」の相においてみると、一は二であり、二は一というアニミズム特有の差異の空間把握に根拠を置くことを知った。アニミズム世界は人間が草木虫魚となり、草木虫魚が人間となって語りかける世界なのであるが、これは自然と人間が直接無媒介に対面しているのであるから、山のカミ、水のカミ、森のカミ等のひとつひとつが千差万別に精霊として露わになるのである。だから、それらの「モノ」が人間の目には対称性として相補的な関係としてあらわれ、どれが欠けても、どれもなくなるというような関係の仕方をしているといえるのである。
 岩田は東南アジアの未開地域において、村落と村落の間が宗教的にも政治的にも相互依存性があることを指摘している。ひとつの村落の中でも、川上と川下、村の東と西は独自に機能しているのであるが、どちらが欠けてもどちらも成立しない相補的な関係をもっているというのである。二元的な対称性をもつ集団のおいて自然と対になった関係をもたらしているのである。また、彼は柄と地の区別の一致という言い方もしている。画用紙に書かれた花の絵は花を除いた地の部分と一対になって全体を構成している。花は花だけで存在するものでもなく、その他の白地もそれ自身だけで存在するものでもない。両方が合成してひとつの意味を持ってくる。いわば、AはAであると同時に非Aである。Aと非Aは等価となっているというのである。
 その一方で、アミニズムのカミは「モノ」としてそれ自体としてしか存在していないが、同時にひとつのカミとしての普遍性もつとされる。つまり、個々であると同時に種や類でもあるのである。「モノ」と「モノ」の区別はそのままカミの区別であるのだが、それらが同時にカミとしての統一性をもっているのである。そのため、一であると同時に多であり、多であると同時に一でもある。
 このようなカミの属性は、「モノ」のすべてが満たされた形状と性質を鮮明にもつ曼荼羅によって示した真言密教とつうじあう。自然のすべてが大日如来の意思によって普遍性をもつことを意味しているということが、カミの属性をいいあらわしているのである。空海の到達した世界は、大日如来の中には世界のすべてが過不足なくすっぽり収まっており、逆に、世界の中に大日如来が鏡に映っている状態を指している。一木一草すべて大日如来の声になる。この横断する世界像においてアニミズム的密教と連なることができるのである。
 わたしたちは、アニミズムと密教は「横」に無限に拡がる世界像であることを理解する。マルクスの場合には、世界像とは商品と商品の関係において貨幣を媒介することによって、貨幣と商品の支配―被支配関係という「縦」の関係ができたのであるが、アニミズム的密教的空間はそれとは反対に、「モノ」と「モノ」とが直接に平等に交換される世界が無限に広がる風景が前提になっている。岩田の観点からすると、人間と自然との相互関係において自然に手が加えられることによって、つまり、自然が人間の時間にとりこまれることで商品化して、馴化した自然にしかみえなくなったことが、失楽園のはじまりであるとの感慨を滲ませているのがわかる。これはわたしたちが市場と商品の誕生によって、あからさまな経済活動の動機になったことを意味する。
 労働と土地(自然)が商品として取り扱われるようになった市場経済のメカニズムを文明史の中で検証したのはカール・ポランニーである。彼は、経済のシステムと社会のシステムは同じではないと区別し、人間は本質的には経済的存在ではなく、社会的存在であるとの認識から、人間の目的は個人的利益を守ることにあるのではなく、社会的名誉、社会的地位、社会的財産を確保することにあるとした。したがって、本来、飢えと利得は経済的なものではないにもかかわらず、それが経済的鋳型に押し縮められるとともに、飢えることを避け、所得を稼ぐための生産の必要性に替わり、労働力や土地は売りに出され、販売される目的に従属するようになる。
 そのような社会は、慣習や伝統、宗教的戒律が支配した古代の都市国家、専制国家、封建主義、十六世紀の重商主義の時代にすら見当たらなかった。商人や市場の利得はいかなる時代にも存在したが、それらによって社会全体がひとつの歯車のように動くことはなかったのである。ところが、市場経済の登場によって自給自足的な社会は大転換を遂げることになる。ポランニーのたどる経済システムの発生系統はこうだ。市場が生産を指図しはじめると、ひとは商品を買うことによってしか物を入手できなくなる。だから、物を買うためには、所得を得なければならず、ひとは自由な労働力市場に投げ入れられる。同時に、金本位制が確立され、貨幣の発行が政府の手を離れる。この二つに、商品の世界市場での流通が追加されると、ここ1世紀ほどのあいだに「経済的自由主義」が完成し、市場原理が世界を席巻することになる。
 物的財への依存だけなら、仕事に関してひとはそれぞれの思い入れを介入させる余地を残している。ある者は、交換経済の出現を横目で見ながら、それでも経済的動機は、栄誉や誇りであったり、ある者は自尊心と隣人への礼儀であったりと、社会的立場に応じてバラエティに富んでいたはずだ。しかし、現実の動機ではなく、その市場の要請に見合った思想が産まれるようになると、飢えと利得という動機が本来の動機とすり替えられ、ひとびとの心に流通しはじめる。つまり、「経済的」動機が本物で、その他のものは「観念的」とみなされるようになるのだ。彼は「本来的」社会が「経済的」社会によって脅かされた挙句、壊されてしまったという言い方で、市場経済を倒錯したシステムとして蔑視した。
 自然は素地のままの自然ではなくなって、もはや飢えを満たす利得の手段として加工され二次的、三次的自然に囲まれてしまった。わたしたちには、そんな文明というフィルターをとおして、半自然としかいえない世界に眼を奪われているのである。それならできることなら、岩田のように「隠れた自然」や、ポランニーの「本来的」社会の生地に到達することが学者の使命ではないかという問いかけがうまれたとしても肯ける。それは日常性においてみえない自然を非日常性において見るということにほかならなかった。
 ここでわたしたちは、人類の未明の意識という壁につきあたっているのだとおもう。それは自然と人間が同じレベルで融合して、石や木と自分たちを生き物として区別して考えることがない宗教的世界の「内在性」を指している。自然の樹木、動物、雷のような自然現象に対する意識は、自分を天然の自然の植物や動物と区別したり分離したりせずに、同じ目線の高さに違和感なく同化している状態である。世界は、まだ宗教になっていない宗教性で満ち溢れていた。
 ところが、このような意識のレベルから次第に、山が神体となり、河川も神を祀り、樹木も神社になり、自然現象も雷、風の神になって村里の周辺や要所に分離され、次第に神社信仰になっていく時代から、自然物の宗教化、自然と自分の区分を意識に上らせるようになって、人類の歴史がはじまるのである。

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