梅原猛の日本文化論を読むと、このような考え方は、今ではほとんどのひとの内面に、過不足なく定着しているのではないかと納得してしまう。彼は、西欧文明は科学技術に裏づけられた合理的な理性文明であって、自然に対する力の原理で世界を制覇したと述べている。わが国は明治以降、近代文明を積極的に取り入れ、実利的な面では非西欧世界の中の優等生としてやってきた。しかし、西欧の中から近代文明社会のゆきづまり感がうまれて(たとえば戦争や原水爆)以降、西欧文明社会の没落ということがいわれるようになった。そこで、梅原は、わが国もいつまでも西欧の科学技術文明の輸入だけにたよるのではなく、精神文明として立派な遺産があるのだから、それをベースにして新しい文明を創造するチャンスが来たと主張する。
その際、わが国の精神文明の遺産として彼が上げているのが仏教である。仏陀の思想が中国を経由してやってきてから、わが国の仏教は根を生やし枝葉を伸ばし、多くの人々の精神的な深さを支えてきた。彼が想定している仏教理念は、①生死を超える思想②慈悲(平和)の思想③業の思想の3点に要約することができるが、道徳の根本にある感情の意味はここからうまれてくると考えるのである。
こうした見方は、とかく西欧文明と非西欧文明の対立図式上の議論におちいりがちになるが、梅原の思想の特徴は、両者の均衡を保つということに言いつくされるのではないかとおもえる。それは次のような中沢新一の考え方とも共通の土壌をもっている。
≪そうすると、現代において仏教とは何かということが問題になってきます。もう一度ブッダと同じ生き方や戦略を現実化しようとしたら、この一神教的で超国家的な巨大帝国に覆われて、グローバルスタンダードが世界を征服していく世界のなかにあって、それは人間の魂があるべき姿ではないと理解して、そのなかで知恵を生き延びさせる方法として、新しい仏教は生まれるのではないでしょうか。≫『仏教が好き!』河合隼雄×中沢新一著
わたしたちは、もはや、近代の中から近代を超えることはできないことを知っている。ということは、国家も迷信も近代自身の力ではなすすべがないということである。そこで中沢が選んだのは、普遍的で体系的な思想とはちがって、曖昧な思想のマトリックス(母胎)のようなものだった。それは始源へのこだわりであったり、宇宙のエネルギーの沸騰にも似た「狂気」や「生命の過剰」への執着だったりする。そこで想定されているのは縄文人やアイヌの精神的豊かさなどであるが、わたしたちの冷ややかな目には、そのまま素直に受け入れることはできない。しかし、普遍性という言葉を歴史の遡行という意味でとらえ、その流れを現代の中で検証しようとするなら、現代を超えるためには共同体内部の視点からは喰い破れないとする中沢の言い分はよく理解できる。
中沢は仏教思想がわが国に伝来してきたものの、土着するに当たって幾度も異和反応を繰り返した点について事細かにたどっている。同じように、わが国の神道にしても、もともと人々が生きる実感の中ではぐくんできた鎮守様の神道と国家神道とのちがいとして二重性をはらんでいたといわれている。この二重性は仏教の布教のなかでもみのがすことのできない影響を与えた。都の正統派仏教の端っこ、現実の衆生に触れる境界面のところでは、山で修行するたくさんの無名の仏教者の力添えがあった。そのため、思想の接触には必然的に変形や歪みをともなっていた。彼は日本思想のはじまりをそのようなところに見据えているようにおもえる。
≪日本人の思考のはじまりというものを考える時に、このとき山の奥の水源地や岩山で起こったことはとても重要な意味をもっているように僕には思えるのです。日本人の思想の特質を考えるうえでも、とても大切だ。そこには日本人が、神話的な思考を、「思想」と呼ばれるようなものにつくりかえるときに、なにをやったかということに関わりがあります。水源地の神、蛇神や竜神は、ギリシャ人の古い表現をかりれば、生命の内側にあって生命をあふれ出してくる自然、過剰としていて暗いゾーエーの生命力の場所とつながっている。その力が十一面観音のような造形につくりかえられていくときに、何か大きな変化が発生している。…中略…そこで造形の技術を使って、過剰する自然の力を十一面観音のような仏像に変化させた。その変化の中に、日本人が自然を思索の対象にする行為のはじまりの形態ができあがっています。≫『日本人は思想したか』 吉本隆明、梅原猛、中沢新一著
このような変形と飛躍の認識は、もしかすると、梅原との共同作業かもしれないが、日本人の原基に縄文的な自然力のエネルギーを蓄えていたものが、本来、仏教がもっている秩序否定(アンチコスモス)の衝動に触れたとき化合し、秘密結社に似た山籠りの儀式や死に接近した山の宗教の形をとったという見方を導きだした。その延長線上に奈良仏教に対する最澄や空海の存在が位置づけられている。彼らは仏教の原型と大衆レベルの宗教意識のほぼ中間地帯で、縄文時代以来の日本人の精神に向けて越境したとされるのである。もちろん、それは中沢がチベット密教の中に見つけた北方シャーマニズムの胎児回帰への修練の奥儀につながるものである。狩猟文化では、大人になる過程のなかで必ず一旦死の場所をくぐり抜けなければならなかった。彼らは断食をやって自分の体を痛めつけながら、仮死状態の中で死と再生の神話を会得しようとした。
ここでは神話的な思考が「思想」と呼ばれるものに変わりつつある経緯が、沈黙の言葉から「行為」の言葉に変わっていく線分のようにたどられている。もし、西欧思想のはじまりが、形而上学という自然をこえる概念の言葉でつくられているとすれば、日本人の思想という場合、ちょうど、沈黙の言葉とそのような概念の言葉の中間地帯でうまれたとされている。その上で、和歌であったり、能、生け花、お茶などの造形や技術をとおして、沈黙の言葉の移し替えが行われたとされるのである。しかも、それらは山に入り込んでいく修験道の伝統と深いつながりをもっていた。
おそらく、中沢の功績は、日本人の沈黙の言葉を探り当てたというだけではなく、概念の言葉に表せない沈黙の言葉との中間領域において、「行為」として表出されたわが国の「思想」のありかを概念や沈黙と同時に呈示し、「思想」の三層構造をみつけたことだとおもえる。それは文字のない沈黙は、行為のメタファーによってしか表現できないものであって、人間の胎内回帰が仮死体験になぞらえるように、それ以上でも以下でもない困難さをはらむ認識をもたらすはずであった。これはわたしたちの認識構造の幅をおおきく拡げることになった。従来の言語思想では、沈黙の解読に終始したのだが、その沈黙がどうしても理解できないところで、その試みはほとんどが座礁してしまったのだ。どの場所でこの沈黙のかけらを拾い集めるか知らなかったからであるが、中沢は、それを「行為」の一点に凝縮した形で理解しようとしたのである。
こうして、中沢は、地下水脈のように流れてきた土着の宗教や辺境とよばれる沈黙の言葉が、概念の言葉として、現代の中であらたな意味をもちうるかどうかについて問いかけているのだとおもえる。そこには、中沢特有の世界史の概念が介在しているのはたしかなのだが、その概念は、普遍性や体系性に近づくのをおそれるように、そっと隠されている。
彼は柳田国男と折口信夫のちがいについて述べ、柳田は共同体に風穴を穿つことができなかったが、折口は、「まれびと」というものによって、外からくる神を共同体の中心に招きいれたとみなした。そして、これは農村共同体のありかと、源流をさぐる試みの中心部にまで遡れる問題意識にちがいないと述べている。それは人間と自然との関係のなかで、狩猟民と農耕民の対立にもたとえられるが、裏面からいうと、柳田には世界史の概念がくっきりと映り、折口にはそのような世界史を破壊する衝動が潜んでいたあらわれかもしれない。
しかし、わたしが梅原や中沢の考え方に少しひっかかるのは、ひとつは、西欧文明の合理性や明証性という近代的理念が、今では当初あったものから大きく逸脱して混乱しているのではないかということである。もうひとつは、わが国の伝統精神というものへの評価が、自身の内部から沸き上がったものではなく、西欧から逆輸入したもので映した自画像をかざしてポスト・モダンと信じているのではないかという点である。つまり、わが国の精神風土としての自意識は二重に錯誤しているということになり、どちらにしても味気ない感じがするのである。そのため、西欧近代と非西欧文明の単純な比較は危ういという気持ちを抱かせることになってしまっている。
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