書評  失墜した社会主義

 マルクスが『共産党宣言』において示した「私有財産の廃止」というスローガンは、あたかも国家的所有に受け取られかねない、とても誤解されやすい言い廻しである。この言葉とともに、共産主義者の任務である①土地所有を収奪する②強度の累進税③相続権の廃止④国立銀行によって信用を国家の手に集中する⑤すべての運輸機関を国家の手に集中する⑥国営工場、生産用具の増加、共同計画による土地の耕地化と改良をつけ加えると、マルクスは限りなく国家的集権主義者に似てくる。その一方でマルクスは、≪ひとりひとりの自由な発展が、すべての人々の自由な発展にとっての条件≫である「協力体」のことを語っている。なぜ、マルクスの言説は矛盾しているようにみえるのか。これを解く鍵は次のような言葉にある。

≪所有ということが、自分のものとしての生産諸条件にたいする意識された関係行為―そしてこれは個々人にかんしては、共同団体によって定められ、また掟として公布され、かつ保証されるもの―にすぎないかぎり、したがって生産者という定在が、生産者に属する客観的諸条件における一定在として現れるかぎり、所有は生産自体によってはじめて実現される。≫『資本主義的生産に先行する諸形態』マルクス著 手島正毅訳

 マルクスはここで、所有という概念が共同体の掟によって作られるものだとしたら、共同体と同義だといっていることになる。その意味では、私的所有も国家的所有も変わらない、ともに、広義の「共同体的所有」なのである。いいかえると、その「共同体的所有」の概念は、はるかに射程が長く、起源としての国家、共同体の成立まで延びていることになる。
 わたしたちは、すでに「共同体的所有」関係の中に首までどっぷり浸かっているものだから、過去に遡っても、「共同体的所有」以前の世界がわからず、また、同じ意味において、資本主義的所有関係以後の世界がイメージできない。だが、ほんとうは、マルクスが未来の「協力体」というとき、あらゆる所有、あらゆる「共同体的所有」をなくした世界のことを考えなければならないのであり、それを確証しようとすれば、共同体または「共同体的所有」の成立時まで遡らなければならなかったのである。
 マルクスに対する遠近感の誤差は、マルクスが所有一般の廃棄ではなく、ブルジョア的所有の廃棄をめざしていると言ったことにはじまっていた。なぜなら、マルクスはブルジョア的所有が最後的にもっとも完成された共同体的所有を象徴するものととらえていたからだ。わたしたちは、ほんとうはここから未来を描くためには、所有の根拠を求めて、もっと時間を共同体、国家、所有の原点にまでさかのぼらなければならなかったのである。なぜなら、このような考え方がわからなければ、マルクスの抱いていた国家のイメージが理解できないのである。
 マルクスは1871年のパリ・コミューンこそ本質的に労働者階級の政府であり、社会的、経済的解放を達成するべき、ついに発見された政治形態であるとみなした。パリ・コミューンは、まず、第一に常備軍を廃止した。また、すべての公務員の完全な選挙制とリコール制を採用し、その給料は労働者並みの賃金に引き下げられた。コミューンはいわゆる議会ふうの団体ではなく、執行府であると同時に立法府でもあった。その上で、住民大衆の多数者に開かれた国家の諸機能を遂行するようになれば、もはや厳密な意味では国家ではなく、死滅を予定された国家であり、いわば、「半国家」または「準国家」と呼ばれるのがふさわしいとしたのである。
 エンゲルスは、『フランスの内乱』の第三版の序文において、パリ・コンミューン20周年記念にあたり、パリ・コンミューンを「プロレタリア独裁」と呼び、マルクスがパリ・コンミューンに抱いた思い入れを補足するように、労働者階級は権力を掌握した場合、古い国家機関で間に合わせることができないと結んでいる。
 おなじく、マルクスのパリ・コミューンへの言及に触発されたレーニンは、1917年の10月革命直前に『国家と革命』を書いた。だが、その一方でレーニンは、エンゲルスの『家族、私有財産および国家の起源』から出発して、国家とは和解しえない階級対立の結果として一定の歴史的段階にうまれた「暴力」であり、ある階級が他の階級を支配し、抑圧するための「機関」であるとする考え方を編みだす。そして、その機関の実体をなしているのは、警察や常備軍、官僚機構であり、したがって、被抑圧階級の解放はこの国家暴力の転覆なしには不可能であるというテーゼができあがったのである。
 レーニンはさらに、その国家暴力に代わるべきプロレタリア国家の原則について書いている。それによると、プロレタリアによる革命はブルジョア国家を破壊するが、国家そのものを直ちに廃止することはできない。革命の第一歩は、みずからを国家、すなわち支配階級として組織されたプロレタリアートへ転化させなければならないとする。なぜなら、死に物狂いの反抗をしてくることが予想されるブルジョア勢力や封建勢力を鎮圧するために、プロレタリアは権力組織を必要とするという理由からである。
 このプロレタリア独裁は、その敵である少数の搾取者を抑圧する一方、住民大衆を資本主義の搾取から解放し、民主主義を大幅に拡大して、多数の貧しい者のための民主主義を実現するために欠かせない制度であると公認された。
 なによりレーニンは、プロレタリア独裁という概念をとおして、過渡期の国家の意味あいについて強烈な自意識をもっていたのである。彼の考えでは、西欧社会より資本主義的な発展が立ち遅れていた当時のロシアでは、既存の封建制度からの圧迫により長く支配され、服従と従属の習慣が人々の社会主義思想の浸透を阻んできた。このような惰性と習慣の力に対抗する武器として、プロレタリア独裁は不可欠と考えたのである。
 もし、このような社会において社会主義という目的意識をもつ場合には、過去の桎梏と現在の時間の段差は、現在と未来の段差を飛びこえることで解消されるしかなかった。日々の労役と宗教によって育まれた暗い遺制に包まれたロシアのような環境のもとでは、強い目的意識に支えられた国家意志の形成が不可欠とされたのである。この点で、わが国が西欧よりも遅れて近代化をおこなう上で、国家の強権的なやり方で富国強兵をおこなったのと似かよっている。
 レーニンの弁証法によれば、すべての事物と同じように国家にもその生成、発展、消滅の過程がある。国家は、常に、階級支配と抑圧の道具であるから、階級や抑圧のない未来の共産主義社会になれば、国家は必要でなくなり死滅するのである。こうしてレーニンは、当時の労働者、農民の気分を敏感に察知しながら、単に、ブルジョア社会との経済的・社会的闘争を進めるだけではなく、ブルジョア国家の廃絶からプロレタリア独裁の不可避性と階級なき国家の死滅につらなる一連のプログラムを提示してみせたのである。
 その際、レーニンは、社会主義のもとでは役人や官吏は住民大衆の直接統治におきかえられ、すべての者が交替で政府の仕事に参加し、それによって誰も支配しないことに急速に慣れるであろうと考えた。このような国家の構想をみるとき、レーニンはどんな資本主義国家もおよばないくらい行政要員を無尽蔵に補充でき、すぐに動かすことができる国家機構に壮大な夢を託していたことがわかる。これによって民主主義は一部の者のためではなく、すべての住民大衆のための制度になり、民主主義は限りなく拡張(膨張)すると考えられた。
 これに対して、本来、マルクスのプロレタリアの権力という概念では、住民大衆の意志によってつくられるコミューン型の国家は、これから死滅の準備をするために避けてはとおれぬネガティブな統制力ぐらいに考えられていたとおもわれる。というより、むしろ、マルクスにおいては、コミューン型権力の掌握は、実質的にはレーニンのプロレタリア独裁のような強権概念とはちがって、国家はすでに住民大衆とのあいだに通路を開き、その土台をなしている市民社会への埋めこみを開始するスタート地点と位置づけられていたのである。そして、国家の権力を廃絶すると同時に、プロレタリア権力もまた、階級としてのみずからの死滅を俎上に乗せることを意味するはずであった。なぜなら、言葉を狭義に使った場合、階級としてプロレタリア国家というのは、「社会主義国家」と呼ぶのと同様、形容矛盾でしかないからだ。
 しかし、レーニンの描いた構想では、コミューン(ソヴェト)は権力を握るや、国家官僚の上からの指揮に代えて「現場監督・会計係」にたとえられるような新たな官僚機構をつくり、その新官僚機構があらゆる官僚制を徐々に廃止することが、プロレタリア革命を完成するための第一歩になる。やがてこれがますます平易化すると、全員が輪番でこなすようになるという。
 つまり、ここに表現されているのは、すべての住民大衆が革命によって市民社会からぬけでて国家の勤務員に上昇することが、平等な権利をひとびとに分け与える中心的役割をはたしていることである。マルクスの場合は、国家は下降して、元あった場所である市民社会のなかに埋め込まれて解消すべきものであった。だが、レーニンは反対に、国家の基本的なイメージを残したまま、割り当てのきく単純な共同作業に変えることで、だれもが参加できる平等な国家を実現しようとしたのである。このような上昇志向はレーニンが党組織論、大衆組織論において、進んだ知識人、遅れた大衆という図式をとおして大衆意識を底上げしようとした啓蒙主義に正確に対応したものである。わたしにはレーニンの考える国家像を引き延ばすと、生産手段の国有化と同じ足取りで住民大衆の総官吏化をめざしていくしかないようにおもえる。
 レーニンのこのような原始的民主主義は、すべての人間が政治家になれば、政治家と一般大衆との距離はなくなるから、政治にともなう支配、被支配の関係は解消されると考えるのとほぼ同じ理屈である。これでは国家のあり方のひとつの例でしかない原始的民主主義が、平等に資格と機会をもちながら輪番制でおこなわれる住民の大多数の国民義務の方向に向きを変え、同じ民主主義といっても、国家に対する自由を意味するのではなく、住民大衆が国家へ向かって段階的に参画するための手段になってしまうのである。このような理解を推し進めると、国家の囲いこみの内か外かによって、個人の恣意的な自由が疎外され、抑圧されるのは目にみえていた。
 もしかしたら、レーニンの頭の中では、社会主義と共同体の間に資本制が高度化したベルトコンベア式の生産工場の作業イメージが重なってみえたのかもしれない。だが、その個と共同性との関係のメカニズムにおいては、例外なく原始的民主主義の素朴さを転倒させてしまいかねない危うさをもっていた。その意味でレーニンの発想の根本は、いわば、国家社会主義といわざるをえないのである。
 マルクスの住民大衆に開かれていく国家、あるいは死滅していく国家の終末のイメージを前にして、レーニンが開いたのはパンドラの箱だったのかもしれない。レーニンの思想の分岐点は、被支配者が数を増せばますほど、抑圧者は次第に消滅していなくなることが民主主義の徹底だとすれば、それが社会主義におのずと転化していく自然過程とみなしたことである。国家を死滅させるためには、国家機能を単純化し、それを住民大衆のだれでもがこなせる単純な作業にしてしまうことによって、国家行政の間口を広げれば、おのずと人は集まり蛇口からの水は薄められるだろうからである。
 レーニンには、そうなれば不特定多数の住民は必ず組織できるという自負があったのだとおもう。だが、国家あるいは政治的国家の理解をあきらかにはきちがえていたことは、のちの歴史がはっきりと証明した。なぜなら、擬似コミューン型国家であるソヴェトは、まもなく政治革命によって権力を掌握したものの、マルクスが提示した下降するイメージを具体化することができず、またぞろ官僚支配を強めることになったのである。
 その後、ソヴェト国家は国内戦と外国の干渉の名目により、死滅と解消の任務を放棄して常備軍を増設し、警察も官僚機構も旧態依然のままに復活した。すべての官僚機構を完全に廃絶し、新しいコミューン型国家をつくるという構想は、現実情勢の必要性というモチーフに透明に編み込まれ、旧軍人や警察官あるいは官僚を呼び戻して元の席につかせることになったのである。また、公務員のリコール制も公務員の給与を一般の労働者や大衆を上回らないという基本原則も反故にされてしまった。こうして、ソヴェト国家の内面においてはコミューン型国家の理念を掲げてはいたものの、実質的にはボリシェヴィキ党の集団が国家権力を掌握しているにすぎない、ただの近代民族国家群以上の強権国家になってしまったのである。理想を失った社会主義はとうてい社会主義という代物ではなかった。

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