わが国における感情の起伏としての三角関係と聞いて、すぐおもいつくのは折口信夫の宗教論のことである。
≪常世のまれびとと精霊(代表者として多くは山の神)との主従関係の本縁を説くのが古い呪言である。呪言系統の詞章の宮廷に行はれたものが一般化して、詔旨(宣命)を発達させた。庶民の精霊だけでなく、身中に内在する霊魂にまでも、威力を及すものと信じられて居た。≫『国文学の発生(第四稿)』折口信夫著
ここでいわれている呪言というのは、巫覡(フゲキ)に憑依した常世神(まれびと)が一人称式に自らの来歴を述べ、部族の歴史、土地の由緒などを物語る言葉のことである。この場合の巫覡というのが広い意味のシャーマンにあたっている。折口が述べているこのシャーマンは、特定の個人にさだめられており、ほとんど職業者のようにあつかわれているから、部族の階層分化が進んだあとの、より高度な段階の広域共同体のことを想定していることがわかる。
当時は郡ほどの大きさの国々が、国造、縣主の祖先によって保たれ、彼らは現人神(アキツカミ)である神主として、それぞれ「語部(カタリベ)」をもっていた。それらのうちの高級巫女はもともと権力者であるか権力者の近親であって、いわば、神の嫁とみなされていた。常世神は嫁(巫女)の神憑りをつうじて呪言を発すると信じられていたのである。それがはっきりと祝詞の口授者自身が神になったのは、呪言が宮廷において行われようになったとき、ひとに対する詔旨を発達させることになり、年頭の詔旨の場は多く、氏々の代表者が賀正事(ヨゴト)を奏上して、天子の寿を賀することに重きをおくようになってからのことである。本来、賀正事は詔旨に対する返礼であったのだ。
常世神は沈黙を守る土地、山川の精霊の言葉をひきだそうとするのだが、精霊たちがいっこうに物言わぬ時代が続いたとみられている。やがて、精霊たちが口を開きはじめると、「あまのじゃく」という怪物がでてきて、神の言葉に口答えばかりするようになった。神に口答えをするこの「才の男」はもともと人形(偶人)であったが、神楽のあいだに「道化役」がうまれて、神の宣託をひとのわかる言葉に変える仕草をするようになったのである。道化役は「もどき」とも呼ばれ、それは偶人の動作に由来しており、また、「才の男」とも呼ばれ、常世神の宣託を人間の言葉に翻訳して、ひとの所作にコピーする役廻りになった。
この常世神の相手には土地の精霊の代表者としての性格が与えられ、それがのちに「山の神」と称されるようになった。この常世神と山の神の関係は、神がシテとなり山の神がワキの役割を演じる。そして、ワキである「才の男」がおどけを行うのである。日本の演劇史のうえで「もどき」役の「才の男」は土地、山川の精霊に擬されており、この系統が千秋萬歳(センズマンザイ)を発達させたといわれている。
このような信仰儀式が最近まで伝えられているのは琉球、沖縄諸島であったことから、折口は常世神が海の彼方からやってくると考えた。その場合、常世神が多くの地霊に対して祝詞を言い聞かせる際には、山の神が代表して受けていた。ところが、海岸に沿って住居を構えていた民が、より広い平地の耕作地を求めて本土に移住したため、ワキであった山の神が祀られるようになったのである。そこで海の神としての常世神の役割を山の神に預けたといわれている。
折口は、さらに、村や国を本土の内陸部に構えるようになると、常世神の信仰は次第に薄れてきて、それに代わって山の神を尊ぶようになり、山の神が祭りの中心になったという言い方をしている。しかし、海の神から山の神への切り替えの背後には、常世神と山の神と地霊の三角関係の転位が隠されており、厳密に検証されなくてはならないとおもえる。つまり、常世神―山の神A―地霊の三角関係であったのが、山の神A―山の神B―地霊の三角関係にスライドしたのである。スライドというよりも、中根千枝の「タテ社会」の構図を借りるなら、底辺を欠いた三角関係abcの集団性の単位が下方に向けて増殖したとみなせるのである。
折口は山の神に仕える神人である山人について語っているのだが、もともと常世神から祝詞の受け手であった山の神が、今度は同類である地霊に対して向きを変えると、常世神と同じく祝詞を発するようになった。いわば、今まで同類であるとおもわれてきた地霊たちの間に亀裂が生じて、山の神Bは山の神Aの「段差」の上位に立つことになったのである。こうして常世神のワキであったはずの山の神がシテとしての資格を得て、いつのまにか地霊を相手に常世神と同じ物言いがおこなわれるようになった。ただし、その際、急に上段に構えて唱えるわけにはいかず、いわば、常世神と地霊たちの仲介者として仲間内の者に言い聞かせるような対等の表現をとることになったのである。
ここで注意すべきことは、山の神の信仰が常世神と地霊との関係で、あたかも「段差」を含んだ二重性の関係を持ってきたことである。いわば、地霊(田の神)は常世神から二重に疎外された位置におかれたことを意味した。この二重性の疎外によってはじめて、この山の神と地霊(田の神)との間においては、横に寝かしたような斜めに走る時間を獲得することになったのだ。この二重性については、もともと常世神がシテ、「才の男」がワキの対立関係として、みずからのうちに胚胎していた。つまり、常世神の二重性は、今度は、常世神と山の神の二重性をもたらし、さらに、山の神と地霊(田の神)の二重性をうみだしたのである。
いいかえれば、常世神を仰ぎみていた自然人(山の神)は、一転して振り向きざまに地霊(田の神)に対して、あたかも対等の仲間うちの者に言い聞かせるような温和な表情を浮かべ、常世神の言葉をあやつりはじめたのである。これは山の神の非連続の連続にみえるひとつの跳躍とみなせるものであり、おそらく、柳田國男の前期から後期思想への転向と目されるのは、このような山の神の変異を感覚的にとらえた立体像に由来しているとおもえる。折口にとっては、「海の人」が森林を開き耕作地をもつようになって常世神と疎遠になり、その代替として山の神を崇めるようになった点にこそ、歴史的時間の屈折を含ませたかったのはまちがいないのである。
こうした経緯をふまえた上で、折口信夫は今日までのさまざまな神道研究は間違っており、ほんとうのあるべき姿を掬い取っていないから、それによって伝統化された神道は、この際、解体して基本から作り直さなければならないと述べている。折口は理念という言葉こそ使っていないが、神道研究は言葉の恣意的な解釈を重ねたことで理念を歪め、古代人の根本思想をとらえられなくなったことが、今日の誤解にいたったおおもとの原因であると嘆いているのだ。それでは、折口が言わんとする神道の根本とは何か。彼はわが国のものの考え方の型を決定づけたのは「みこともち」の思想であると言う。
≪まず祝詞の中で、根本的に日本人の思想を左右している事実は、みこともちの思想である。みこともちとは、お言葉を伝達するものの意味であるが、そのお言葉とは、畢竟、初めてその宣を発した神のお言葉、すなわち「神言」で、神言の伝達者、すなわちみこともちなのである。祝詞を唱える人自身の言葉そのものが、決してみことではないのである。みこともちは、後世に「宰」などの字をもって表されているが、太夫をみこともちと訓む例もある。いずれにしても、みことを持ち伝える役の謂であるが、太夫の方はやや低級なみこともちである。これに対して、最高位のみこともちは、天皇陛下であらせられる。すなわち、天皇陛下は、天神のみこともちでおいであそばすのである。だから、天皇陛下のお言葉をみことと称したのであるが、後世それが分裂して、天皇陛下の御代りとしてのみこともちが出来た。それが中臣(ナカトミ)氏である。≫『神道に現れた民俗論理』折口信夫著
折口は「みこと」という祝詞がひとに命令をくだし動かすことを踏まえて、ここでふたつのことを言っていることになる。ひとつは、「みこともち」が「みこと」を唱えると、やがてその言葉を発した神と同格になり、それが「神ながらの道」として神の具現化や人間化につながることである。そして、もうひとつは、神になった「みこともち」は、今度は新たな「みこともち」として中臣氏をうみだしたことである。
この移動の経過が重要な意味をもつのは、神と「みこともち」と臣下の三角関係は滞留することなく、それぞれの役どころを流れだし、留まることなく無限に増殖するようになるからである。つまり、「みこともち」は「みこともち」に固定化しているのでなく、「みこと」を唱えて神になった後、今度は臣下の長が「みこともち」になり、また、下に次の「みこともち」を作り出し、やがて神として「みこと」を唱えるようになるのだ。
こうして、「みこともち」と「みこと」は順次入れ替わりながら地位を下降して、「みこと」という神語を支えることになる。こういう転位の構造は、最初、「みこともち」がワキであったことを考えれば、常世神がシテであり、山の神が精霊の代表としてのワキであり、やがてワキとしての山の神がシテとして田の神(地霊)をワキに据えたことと正確に照応している。こうして、この「みこともち」という神と臣下との間を仲介するピラミッドの思想は、反復することで全体性を兼ねそなえるものになった。
そればかりか、一旦、最高位の神が「みこと」を発するなら、最初にそれが発せられたときの時間に戻り、同時に、それが発せられたと同じ場所に戻ると信じられた。つまり、祝詞を唱えることは時間と空間を超越する永遠性をもつと考えられるようになったのである。たとえば、大和の国の最高の神人である「大倭根子天皇(オオヤマトネコノスメラミコト)」という称号が日本国全体を指す国名に変わったのは、この祝詞の信仰に由来しており、それは京都へ遷都しても同じ称号が使われたのだ。
また、祝詞を唱えることによって、葦原ノ中国という地名や天孫降臨の日向の地は高天原から移動して全国の地名に拡散した。つまり、祝詞の中では歴代の天皇は神武も崇神もともに「肇国(ハツクニ)しろす天皇」と呼ばれ、時間は世代を超えて飴のようにのびていながら、それぞれ歴代の天皇の在位期間は、初めて国を作ったとされる時間と信じられたのである。こうして、折口信夫は「みこともち」の祝詞の信仰において、空間の拡大と時間の移動と伸縮の秘密を暗示したのである。
わたしは、最初、この時間と空間の移動の意味することころがわからなかったのだが、これによって、なぜ、大和の一豪族にすぎない勢力が、わが列島全体に支配をおよぼすようになったかの秘密を解き明かす糸口を見つけたようにおもえた。そして、「みこともち」とは何かを問うたとき、神と人間の間を仲介するひとというように定義した場合、シャーマンが神と臣下とを媒介したことと同じ意味をみちびきだせるとおもえた。そうだとすると、この仲介役としての「みこともち」という神人とは、とりもなおさず、卑弥呼のような最高位のシャーマンではないかということにおもいあたったのである。
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