書評  神話の解体=福音書

 人間の生来の悲劇をさぐりあてたかのようなバタイユの考え方にとっては、「最高存在」の子であるイエス・キリストが肉体をもって実在した人物であったかどうかということは、とりたてて意味をもたない。イエス・キリストが実在しなかったとしても、そこには、さまざまな言説が入り乱れて、福音書の原作者の思惑を超えることがあるからだ。イエスの実在を信じていたニーチェは、デカダンスの神を弱者たちが信仰するというキリスト教の図式を描いた。

≪すなわち宗教とは、人格の統一に対する懐疑の一産物、人格性の変更である-。人間のすべての偉大さや強さが、超人間的なものとして、外からのものとしてとらえられていたかぎり、人間はおのれを卑小ならしめた、-人間は、きわめて憐れむべき弱い面と、きわめて強い驚嘆すべき面との二面を、二つの領域のうちへと分裂せしめ、前者を「人間」、後者を「神」と呼んだのである。≫『権力への意志』 ニーチェ著 原佑訳

 ニーチェのいうような、おのれの卑小さが外部に権力をつくるという権力発生のメカニズムには、はっとする驚きが隠されている。こういうキリスト教批判は、無神論と踵を接しながら、神そのものへの批判というより、「悪しき神」への批判につらなっている。このニーチェのキリスト教批判を要約すると次のようになる。

① キリスト教は征服された民族の復讐の宗教である。
② だから、敗北した者、虐げられた者が仲間を寄りつどう。だから、ルサンチマン道徳が支配し、弱い人間の恨みから発生した道徳をもっぱらとする。それにひきかえ、高貴な道徳を否定しようとする
③ キリスト教徒は豊かな大地や精神的に豊かな人に対して、徹底的に敵意を燃やす。社会のおちこぼれや神経病患者らが集まって、特に、肉体を持っているものに反発して、自分たちは霊魂だけを信じているとする。
④ キリスト教の神は、権力への無力感をもっている。ほんとうの神は、権力への意志をもっている。

 こうしてニーチェは、宗教は人間という概念をみすぼらしいものにしてしまったと慨嘆した。人間はおのれ自身の優秀さ、偉大さ、真なるものをおのれ自身に由来するものとしないで、受動的なものとしておのれの外に受けとめてしまった。もっと悪いのはそれを固定化する制度ができあがったことだ。この固定化を目論んだ僧侶がめざしたのは、人間の最高の類型としての自分の掟を人々に教化することだった。僧侶はおのれのみが智者であり有徳であり最高の支配権をもっていると信じることを人々に強制した。それに対して、ニーチェによれば、僧侶とは健康な人たちの精神を食いつぶして生きている寄生虫であり、彼らは自分たちの都合がいいように「神の国」を捏造するペテン師だ。「あの世」、「最後の審判」、「霊魂の不死」といった大嘘を武器にして、この世の支配者になったとされる。
 それだけではない。「僧侶的類型」はさらにその永続化を図るため、「哲学者」を必要とした。彼らは「聖なる虚言」を駆使して、権力や権威など無条件の信ぴょう性を味方につけた。それが権力とともに表われた「知」の発生に相応の形式だったのだ。
 わたしたちはニーチェほどには、「知」のでたらめさを吹聴したくはないが、これはずっと、でたらめさが「知」であることを知ってしまっているからだ。だから、厳密には「非―知」なるものの切実さを知らないのだが、ニーチェの切実さは、実際に、その「知」の出所を暗示するものになっている。この「知」の周辺には、敗北した者、虐げられた者が仲間を寄りつどい、ルサンチマンを組織し、弱い人間の恨みから発生した道徳をもっぱらとし、逆に、「高貴な道徳」は退けられ隠される。バタイユの思想には、ニーチェに寄り添うように、そのような「知」の破壊を目論んでいる箇所が覗いている。

≪原初の人間たちは、正当にも、思考するほどまでに身を落とした人々を軽蔑していたのだった。…中略…が、他方、この隷属的な活動のみごとさを極めると、次のようなことが見えてくるのだ。すなわち人間と思考の究極の追求こそが至高性であり、それ故決然たる思考とはあらゆる思考の隷属性を暴く思考―つまり思考が極めつくされて、思考自体が思考の無化をおこなうようにする操作―であるということが見えてくるのである。≫『非-知』 ジョルジュ・バタイユ著 酒井健訳

 ここではバタイユはニーチェより、一層、ラジカルである。なぜなら、ニーチェの「高貴な道徳」とルサンチマン道徳の反語的対立とはちがって、「知」が「知」でなくなるすれすれの地点で「知=非知」が「自己超越」の問題として語られているからだ。このあたりはニーチェがキリスト教団を批判しても、イエス自身の悪口を一切言っていない姿勢において匂わせたものにちがいないが、ニーチェは、結局、匂わせただけでそれ以上イエスを追いつめることはしなかった。これほど口をきわめてキリスト教を批判しているニーチェが、イエス個人の悪口をいっさい言っていないことは注目に値する。
 これは、おそらく、イエスの人格のわかりにくさに由来するにちがいないが、ニーチェによれば、イエス自身の説く信仰とは、闘いとるものではなく、はじめから「ある」ものとされていることだ。それは、弟子たちが、まったく関係のない「神の国」、「最後の審判」、「霊魂の不死」などの言葉で、原始教団を築いていったのとは逆に、言葉では厳密に定義できないゆえに、掌にのせることができないものだったからだ。イエスは過去の決まりごとを一切認めなかった。イエスは、生命や真理、光といった精神的なものを、彼の言葉だけを使って語ったのである。つまり、信仰や真理をきちんとした根拠を示して証明するというようなことは考えもしなかったのである。
 そこからくる第一の特徴は、イエスは物事や現実をすべて肯定したということである。第二にイエスの教えの中には、神と人間の距離をはかるものとして、罪や罰や報いという考え方がない。であれば、いわゆる信仰などではなく、実際にものごとを行動に移すことこそが、その内容なのである。だから、のちに、原始キリスト教団がでっちあげた「神の国」、「天国」などの言葉は、イエスの教えと全く背馳することになる。
 イエスの言動のわかりにくさは、あるときは超然と思索しながら、群集に愛の説教をする一方で、パリサイ人(モーゼの律法や預言者の啓示を重視し、律法を厳格に守ることによって神の正義が実現されると説いた。この形式主義を批判したのがイエスということになっている)に対して激越な罵倒をおこなうその相反する行動の振幅そのものに由来する。
 ここで、わたしたちが理解するところによれば、イエスの「信」の着地点を探そうとすれば、行動の核心までたどった不可解さを追体験することと同義になる。信仰ということであれば、伽藍につつまれた教団の歴史と神学の体系が証明してくれるのだが、イエスが体得したにちがいない「信」は、この信仰との関係において、だれも概念の上にのぼらせたものはいない。その意味で、わたしは、信仰と「信」のすれちがいからイエスの言動の意味が浮き彫りにできるとおもう。ニーチェによれば、キリスト教徒のしるしは信仰ではなくて、十字架で死んだイエスのように生きることなのである。本来のキリスト教は、信仰に依りかかることではなく、イエスの行動の軌跡である。だが、あの宗教改革のルターでさえ、信仰を行動の隠れ蓑に使ったのである。
 そして、ニーチェのいうイエスの行動そのものとは、わたしたちの言葉でいえば、生の一回性に賭けた「自己超越」の意志にほかならなかった。しかし、福音書のなかには、憎悪と諦念、疲弊と罵詈雑言が繰り返されているが、その中から、この行動の言葉をふるいわけることはすこぶるむつかしい。それなら、福音書の世界に言葉の構造が重層的に煮詰まっていると考えたらどうだろう。もし、その中で、イエスの珠玉の言葉がみつけられるとしたら、ニーチェの予想は的中したということになる。事実、福音書からはたくさんの人々の言葉が聞こえてくるが、ニーチェはそれらを微妙に聞きわけた。その矛盾の声のなかに、イエスの真実がかくされていることを知っていたからである。イエスはいわば言葉の矛盾の人であったというのは、それら矛盾のすべてがイエスであったからである。
 まず、イエスの言葉の第一の層は、イエス自身の言葉である。イエスの言葉は「自己超越」のみに捧げられていたわけではなかった。その「自己超越」はイエスには特別の意味をひきよせ「信」を支えていたが、日常的に発せられた神とイエスをむすぶ「自己肯定」の言葉も確かにある。そして、パリサイ人を攻撃するときにみられる破滅的ともみえる「自己否定」の言葉もまた、イエスの真実の言葉だった。自己破滅、死への衝動、それらがキリスト教の思想を超えて、イエスの思想の背面の重心をなしていた。この「自己否定」の言葉は、「自己超越」の言葉と無意識の葛藤を演じるとき、より熾烈な光彩を放ったのである。
 そして、第二の層は、イエス自身の言葉ではなく、原始キリスト教団をつくろうとした弟子たちの言葉である。いわば、「集団的な信仰の共同性」の言葉になる。イエスの意に反してさえも、ユダヤ教に対して党派として対峙しなければならず、時の政治的権力の圧迫のもと、疎外と忍辱の生活を強いられた者たちの呪詛に似た言葉である。これは、多く、攻撃、防御、憎悪、復讐心、怨念など、自己から対象に転じた直接的な「自己否定」の言葉で隈どられているはずだ。そのほか、キリストの権威をふりかざすときは、もちろん「自己肯定」の言葉も使った。キリスト教団がヒエラルキーをもつにいたった経緯はイエスの時代でも同じであったのだ。そして、最後の層が、信者である群集の言葉であり、 「自己否定」でも「自己肯定」でもない、素朴な信仰の塊のような不定形な言葉であった。
 こういう言葉の重層的な構造によって、福音書は書誌学的に解体されるはずだ。その解体された場所がイエスをどこに宙吊りにするかはわからぬが、イエスを福音書そのものと同じに考えたり、原始キリスト教団の作為にまどわされないかぎり、福音書の言葉が言葉の錯綜からうまれたのはまちがいないとおもえる。

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.ne/
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