≪価値は自然の手段や道具としての有用な変更でもたらされるもので、価値の普遍性は役にたつ交換によってたもたれるとかんがえる『資本論』のマルクスの価値概念には、いつももの足りなさがつきまとう。素材や物体のさまざまな形態としてある自然の有用な変更や、そのための「組みこみ」の次元に、価値の概念がかぎられているからだ。過程としての自然の変更、いいかえれば時間―空間の変更がその基底にあることはマルクスでは問われていない。経済学的な自然は、全自然を対象的な行為の瞬間でしか表示しない。≫『ハイ・イメージ論Ⅱ』 吉本隆明著
吉本がここで「組みこみ」と述べているのは、マルクスのいう人間と自然の対象化関係のことを指している。すなわち、人間は一方では受苦的な制約や欲求を個別性としてもっている点で、動物や植物と同様に自然の一部である。にもかかわらず、そういう自然存在でありながら、人間的な自然存在でもあるのは、人間が対象的世界を実践的に産出し、つまり非有機的自然を加工し、自分自身を二重性の意識で眼前に確証できるからである。この人間の対象化活動としての生産をつうじて自然は、人間の制作物を現実化し、逆に人間も自然によって現実化してゆくのである。この過程を経て、自然が人間の非有機的身体になり、人間は自然によって有機的自然となる。こうして人間と自然は互いに相手を受容する中で自己を二重に疎外していくというのが、マルクスのいう「貫徹された自然主義あるいは人間主義」の主調音であった
この場合の自然とは、人間が道具を使って手を加え、人間に役立てようとする自然素材のことである。この働きかけは同時に、人間が自然を享受(消費)しながら、自分自身を技術的により高めることにもつながる。初期のマルクスは、フォイエルバッハから継承したその自然哲学の中で、人間と自然にはこういう相互交換の図式が成立していると主張した。これはのちの『資本論』でも活かされ、労働価値説として展開される。
だが、吉本によれば、それら空気や水、大地、鉄、木などの自然は、素材として人間の把握とは別に人間の外に、無関心に実在することが前提にされているもので、いわば括弧つきのものにすぎなかった。そのため、彼はそのような自然は奥行きも揺らぎもなく、静態的で窮屈なものであるとマルクスを批判している。それに対して、現在が到達した高度な視線は、この物質としての自然の内側に、素粒子への解体をとおして、生成と消滅を繰り返す過程が潜んでいることを知るようになったのである。目にみえるさまざまな用途をもった物体としての同じ自然が、一方のみえない世界ではざわめき、産まれ、動き、消滅する生成の過程をはらんでおり、それは人間と自然の関係の全体像を示す上で不可欠な要因になったと考えたのである。
人間は、精神あるいは肉体を使って自然に働きかけ、人間の欲望をみたす有用性のために、自然を非有機的身体として価値をうみだすが、その際、対象たるべき自然は、物体の形状や性質などの巨視的構造以外に、素粒子、分子や原子とかの微視的な構造との二重性において存在するのである。そして、ここでいう素粒子、分子、原子を背景にかくした構造は、いつも時間―空間の変容によってもたらされると仮定することができる。さらに吉本は、これを価値領域の深化と呼び、全自然が価値化される極限概念とみなせば、有用性の価値や交換価値の概念は、そのほんの一部分の断片にすぎないとみなした。
マルクスの交換価値概念は時間経路にそってあらわれるのであるが、極限としての価値に比重がかけられるようになると、未来の価値概念は、時間―空間の変容体になる。また、全自然の価値化の領域が拡がればひろがるほど、逆にいうと、極限においては価値概念の不可能性が表われると考えなければならなくなる。むしろ、その極限の時間―空間の変容の中から逆算して、現在の有用性や交換価値は位置づけられなければならなくなったのである。このような方法を吉本は「社会経済的概念」から「普遍経済学的概念」への転換と名づけた。
もし、吉本の言うように、道具が高度化し、価値化の領域が無限大に拡がるとすれば、人間が有機的自然に化した自然について、さまざまな形で存在する自然とその物質の基底にある過程を交叉させ疎通させることができるようになる。そうなると、具体的な人間概念を膨らませたとき、「生きるためには働かなければならない」ということをその限界と考えることができなくなる。そればかりか、存在し変容するという矛盾や軋轢、また、価値によってあるものは労働者になり、あるものは資本家となる図式さえ疑義にさらされることになるのである。
これは言いかえれば、この高度な視線の先からみるなら、個と全体の対立、自己と他者の対立、権力と反権力の対立図式を超えるシステムの出現を感じとれることになるのである。たとえば、現在の社会が囲む時間と空間の隙間に綻びが生じており、労働価値説では理解できないことが多いことを指摘することができる。それだけではなく、人間自身においても素粒子までいかなくても、DNA鑑定によって個人が特定できる視界をもったことにより、個と全体の対立は不可能になるなど、その予兆の意味する範囲はますます拡がっているのである。
このような微視的な価値化の拡がりは、極限の巨視化とパラレルである。かつて、埴谷雄高は宇宙船から見た地球には国境線がないと言った。この視線をより一般的に拡大するかのように、吉本は、人間の価値概念の極北として、死あるいは歴史の終末からの視線につながる「世界視線」という言葉をあてはめた。そこでは、宇宙への旅立ちに往路と復路があるとするなら、埴谷と吉本の差は、技術の高度化をはさんで、往きつつある死と還りつつある死のちがいとして別れるが、死の意識こそ、最終的な視線として未来を予兆する考え方は共有されている。
マルクスは時間のことを「類」の本質と呼んだ。そして、死は「個」人の死滅ととらえられている。ここからすると、「類」は死滅しそうにないことが前提になっている。そこで、現在の欲望の最終地点において、時間が厖大に膨れ上がり、全貌がみえなくなり、それでも現実性をみつめ残すと仮定したらどうなるか。その結果、死の意識が訪れ、その高みにおいて現実をみるなら、ただ、限界の空間性としてしかみえなくなるのではないか。それはいわば、時間と空間の同在性の意識にほかならない。わたしたちは、もはや、空間の時間化や時間の空間化の視界ではなく、第三の地点として「もうひとつの時間」の臨界に立ちあわざるをえないのである。こうして、マルクスの時代とちがって、時間と空間を両方見わたせる場所に、わたしたち人間はたどりついたことになる。
吉本はこの立ち位置を視線の問題として、比喩的に語っている。現在の都市のイメージは、人間の座高あるいは直立の眼の高さに水平に描かれる視線と、垂直に下から上へ向かう視線に限られているが、この視線は人工衛星ランドサットによる未知の視線によってのりこえられたという。人工衛星ランドサット映像は上空800キロ前後から100キロ前後までの宇宙空間から地球に向けて降りた垂直視線に当たっている。つまり、そのランドサット映像は、人間が時間と空間の関係の限界を突破した証明だというのである。
≪ランドサット映像が世界視線としてあらわれたことの意味は、わたしたちがじぶんたちの生活空間や、そのなかでの営みをまったく無化して、人工地質にしてしまうような視線を、じぶんたちの手で産みだしたことを意味している。この視点はけっして、地図の縮尺度があまりに大きいために細部を省略しなければならなかったとか、さしあたり不必要だから記載されなかったということではない。ランドサット映像の視線が、かつて鳥類の視線とか航空機上の体験とかのように、生物体験としての母体イメージを、まったくつくれないような未知のところからの視線だということに、本質的な根拠をもっている。いわば、どうしても人間や他の生物の存在も、生活空間も、映像の向う側にかくしてしまう視線なのだ。≫『ハイ・イメージ論Ⅰ』 吉本隆明著
ここで吉本が対面している状況は、人間や生物の生活空間における時間性や空間性を、一瞬にして無化してしまう死の視線とでもよぶべき体験を語っていることになる。そして、吉本は、その死の視線の先にあるものについて、生と死のつなぎ目として具体的にイメージする。人工衛星ランドサット映像は、航空写真の映像とちがって、建物の内部と外部が区別されておらず、建物自体の輪郭も無化し、ビルや田畑がいっしょの地表層として無機的に平面化されている。ここではどんな都市があるかとか、町村やどんな川が流れているかなどはどうでもいいものになっている。また、人間や他の動物たちもその生活空間も隠された視線である。その中で、人々が痕跡のように働き、遊び、恋愛し、泣いているかなどは埒外において、その人間が人工的な建物や突起物を地層上に築き、変化させることのみが抽出されている。
いわば、人間は素粒子、分子、原子を背景にかくした微視的構造と同様、動物や植物の中の一種として地表上に存在するかもしれない可能性がためされているのだ。この可能性は未来の価値概念を映すだけではなく、過去に向かっても開けられる。なぜなら、イメージは、座った時の座高の高さで、地面に平行する「普遍視線」と、この「世界視線」の交わるところでつくられるとするなら、地質学の過去のデータにもとづく「普遍視線」を代置させれば何万年前の地勢を再現できることになるからである。
吉本は、近畿地方で奈良盆地が隆起と沈下をくりかえしていた1万年ほど前、樋口清之が大和盆地は海の湾であったと言っていることをデータのひとつとして取り上げている。その後、紀伊半島の地盤が隆起で持ちあがり、水は北へ琵琶湖に向かって流れるようになるが、土砂が堆積して奈良山稜をつくると、今度は、出口をふさがれた奈良盆地は湖になり淡水湖になった。それと同時に、北側の窪みから大阪湾に排水しはじめ、その後、地盤の隆起によって現在のような盆地になったというものである。
したがって、奈良盆地は、遺跡から出土された狩猟や漁労や植物の実、骨などの食料品や住居や集落跡、土器、祭祀の発掘をもとにして、奈良朝時代までは湖水や湿地であったことの名残りで、標高45m以下にはそれら住居跡がないことがわかってきた。そのため、橿原遺跡は縄文末期のもので、大和盆地湖に突き出た岬みたいに三方が水に囲まれていた。
これらの資料をもとに、吉本は、縄文期(晩期新石器)、弥生期(稲作農耕開始期)、古墳期(古代国家成立期)の歴史的な時代区分が、高度映像の解析の結果、地層の標高差や地形差に還元できるとする。神武をはじめ歴代の天皇の実在性はともかくとして、弥生文化のはじまりにおいて、大和盆地湖畔の氏族共同体から、水稲耕作と工芸技術を携えて他の共同体を圧倒しながら、初期の部族国家を形成としていくありさまは、この映像技術においても確かめられた。
そして、吉本は、標高50m以下を湖水に想定した大和盆地のランドサット映像図面を作成している。これによると、弥生時代の住居や集落は標高50m線の大和盆地の湖岸にそって発見されていることを示した。また、縄文期には標高70m以下の地域が湿地帯か湖水であったから、住居跡や集落は標高70m以上のところに点在していることがわかった。
吉本が、座った時の座高の高さで地面に平行する「普遍視線」と、この「世界視線」の交わる点でつくられるイメージ(像)というとき、時間―空間の変容が加えられ一次元飛躍しているとおもえる。それは、わたしなどがみると、生でもなく死でもない生と死の中間点をスムーズに通過する儀式を暗示しているように映る。
高度な俯瞰する視覚は、いわば、歴史区分を無機的に平面化したことであり、同時に、空間を歴史化したものでもあった。この時間―空間の変換は、「いま」、「ここで」人間が呼吸し、事物に対して活動する生活の範囲をはるかに凌駕した世界を想定するよりほか、入手することができないものだった。実際に、わたしたちの社会をとおりすぎる時間意識の表出は、人間と自然との対象化関係によって、時間はほとんど皮膚感覚の閾値をこえ、加速して無限大に拡延している。
人間化された自然と自然化された人間の時間の質量が膨大に膨れ上がったため、もはや人間の座高あるいは直立の眼の高さに水平に描かれる視線や垂直に下から上へ向かう目線では、この時間を計測することが不可能になっているのである。そのため、時間に焦点をあわせると空間が極小化され、逆に空間に焦点をあわせると時間が極大化する矛盾を生じる。この事実を人間の最後性の欲望においてもちなおし、均衡をとるには、どうしても時間と空間の両方が見渡せる無限遠点からの視線が必要だった。
このような視線から推測できることは、世界がもはや概念としての言語によってではなく、肉体そのものによってしか表現を許されない、いわば、思想言語を考える肉体として肉離れしているとでも呼ぶほかない事実である。概念は肉体言語としてしか機能しえなくなっており、現在の深い陥没が概念としての概念、つまり宗教的、知的観念を停滞感に引きずり込むのは当然なのである。逆の言い方をすれば、停滞感をもつことは宗教的観念に足をとられていることを意味しているのだ。
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