普段、死は、人間の死への対面によってよりあからさまに、かつ重層的に出現する。つまり、死は、生とのコントラストにおいて、生に侵蝕し、言語の逸脱や越境をまねきよせる。わたしたちが、ありふれた思想に納得してしまうのは、親離れ、成人して仕事をもち、結婚し、子供を育て、巣立ち、やがて年老いて死んでいくという順序の延長上に人生を刻んでいることを安易に受け入れてしまうからだ。その反動から、途中からその軌跡が途切れたり、屈曲したりすると、ありふれた生活でなくなったとおもいこみ、人々はわが身にふりかかった不幸を嘆くことになる。あるいは、世の中のことが何もかもわかったつもりの若年寄のように、無気力すれすれの場所で世捨て人の思想を抱くきっかけになったりする。
それらの両方とも嘘っぽいのは、自分に対する思想と自分が他者のなかで位置づけられている関係づけの異変に気づかないからである。つまり、自分の方からみる視線と、死の向こう側から見る視線はおのずと喰いちがっていることがわからない錯誤、または関係妄想といっていい。吉本隆明は、そういう齟齬をみつめることをつうじて、死の触感を自己幻想と共同幻想の関係のちがいとして、次のように述べることができた。
≪人間の生理的な<死>が、人間にとって心の悲嘆や怖れや不安としてあらわれるとすれば、このばあい<死>は個体の心の自己体験の水準にはなく、想像され作為された心の体験の水準になければならない。そしてこのばあい想像や作為の構造は、共同幻想からやってくるのである。人間にとって<死>に特異さがあるとすれば、生理的にはいつも個体の<死>としてしかあらわれないのに、心的にはいつも関係についての幻想の<死>としてしかあらわれない点にもとめられる。もちろんじぶんの<死>についての怖れや不安でさえも、じぶんのじぶんにたいする関係の幻想としてあらわれるのだ。≫『共同幻想論』 吉本隆明著
ハイデッガーの場合などは、死に向かう現存在が、なぜ、死を前にして恐れ不安を感じなければならないのかの理由について、なんら本質的な回答を与えていない。というより、むしろ、死者のどのような死が、また、誰の死を契機に死を自分自身の問題として感じなければならなかったかが不明のまま、現存在が現存在自身の否定によって引き受けられた死が当然であるかのように、そのままの形で受けとめられている。死の意識にいたるのには、当然、その過程があるはずなのだが、それを無視してそのまま死に着地する点や面を拡大鏡にかけたように覗き込んでいる印象を受ける。
ところが、吉本にとっては、死の問題は自分が心的に体験できないだけではなく、他者の死さえ切実には接近できないことが、はじめから前提にされている。にもかかわらず、死が目前の恐怖であったり、漠然とした不安であったりするのはなぜかという点に、死の問題のつかみどころのなさを嗅ぎわけたのである。
現実界には肉親や隣人の死と家族の悲しみという事実があるが、人は自分の死そのものよりも、すぐそばの死でさえも十分にわがものにすることはできない絶望にこそ、死の真実があるかのようにはじまるのだ。他者の死はじぶんの不安とは直接的につながらない。もし、つながりうるとしたら、ただ、共同幻想という鏡をとおして、その彼岸に死を仮構することよりほかにはできないとみなされた。
吉本の『共同幻想論』においては、自己幻想の中に組み込まれた共同幻想として、死は共同幻想の彼岸にある「他界」観念にとりこまれている。その場合、吉本が共同幻想として想定している心性は、柳田国男の『遠野物語』を材料にしていることからわかるとおり、およそ、原始未開の心性ではなく、個体の意識と村人の共同性の観念が矛盾して、利害がからまった世界である。つまり、原始未開の意識から遠く離れて、個体の意識がもともと共同性の意識とぶつかりあい、ある意味で矛盾や桎梏をともなう出来事をベースにしているのである。その中では死は特定の場所をもちようがなく、あるとすれば、共同幻想の彼岸や自己意識のうちにしかありえない。その共同幻想を媒介にしてしか、死という未体験ゾーンへの切り込みは本質的に提起できないとしたのである。
吉本は、ここで、共同幻想と自己幻想が分化した段階においては、死の意識をかたちづくるわからなさと不安は矛盾なく同時に人に訪れる心性だと言いたいようにおもえる。なぜなら、彼の規定にしたがえば、死は人間の自己幻想が極限のかたちで共同幻想に侵蝕された状態と想定されているからである。わからなさとは、共同幻想自体のわからなさであり、吉本の言葉でいえば、自己幻想と逆立した共同幻想によって侵蝕された状態のわからなさである。このわからなさは、同時に、共同幻想から疎外された心性を喚起し、共同幻想の彼岸の「他界」観念は、このような自己疎外意識によってもたらされる。おそらく、このメカニズムによって、類としての人間は転倒するが、この転倒はおおく死の不安として関係妄想によって定義されるはずだ。
もし、この死の意識を関係妄想というように考えれば、人間の自己意識の了解構造の異和にこそ、転倒の影が伏せられているとみなければならない。共同幻想によって自己幻想が侵蝕されたと解釈しようと、自己幻想の中に共同幻想が覆いをもたらすと考えようと、ともに死が決して単独では個体の自己意識の俎上にはのぼらないことをみとめなければならないからだ。
ところが、三浦つとむの文法論では、死の意識は個人の「客観的関係」に還元できるとみなされている。
わたしは死ぬだろう
三浦つとむはこの一文の中で、現実には生きている「わたし」が、家族の悲しみをさそって棺桶に納まった死後の観念的世界を想像し、現実と想像が複雑にからみあった「客観的関係」のしくみから、不安にかられた「わたし」の意識と心情を抽出しようとした。その場合、「わたし」という主体にとって、死後の観念的世界と現実界の双方に二重化されるだけではなく、同時に、現実の「わたし」以外にその想像世界の中でそれに対面している観念的な「わたし」が自己疎外して、自分自身が二重化することを意味した。将来の自分の棺桶姿を前にそれに対坐しているもうひとりの架空の自分を「客観的関係」として設定し、そのときの葬儀の様子や自分がいなくなったあとの寂しい家族のゆくえが細やかに思い描かれ、やがて、それが現在の自分ではなく、将来の自分であることを示すように、最後に現実の「わたし」に戻り、「う」という推量の助動詞でしめくくられていることになっている。
この一文には、こういう現在の客観的関係と将来の客観的関係の往復が含まれ、「わたし」の立場の移行や飛躍が時間として仕組まれていることが理解できる。しかしながら、ここには、現在の「わたし」と将来の想像上の「わたし」との間の観念的な往来は、共通の直線の時間が流れているだけで、それによって時間の流れが途切れたり、異和を発したりすることはない。いわば、死に向かって同時に、「ひとは死ぬ」という場合と現在の時間の延長線上に、自己の現在を認めるにすぎないから、そのことがどうして現在の自分を威嚇するかについては、依然、不明のまま残るのだ。ここでは全体をつうじて、動物や植物が生成と死滅を繰り返すと同じように、ひとが一般的に「死ぬ」ということの意味を、飴のようにひっぱって延ばしているところに時間の本質があるからである。そのため、「わたしの死」は無言の圧力を加えて、自己意識の動揺や心のゆらぎをおこすことはない。三浦の文法解釈なら、語り手の心の中にも、まるで、ゆらぎがないかのように安定した言語の意味作用のみが残ってしまうのである。
しかし、死は共同幻想によって多義的にあらわれるということのみが、生と死をつなぐ環にほかならない。ともすれば、死は将来の想像の産物とおもわれがちであるが、それは共同幻想によって紡がれたものでしかないのであり、「わたしは死ぬだろ」というのも、もちろん、死を個体の未体験ゾーンと考えた場合、共同の幻想の一般的なあて込みでしかない。
それをみずからのものとして追認するためには「う」という推量の助動詞が必要であった。つまり、「わたしは死ぬだろう」という一文の中には、すでに、共同幻想に組み込まれた自己幻想のありかが時間性の相違としてひとびとに不安や恐れを生じることが決定づけられている。つまり、自分の想像世界とおもっていても、実は、家族や隣人の死でしかおしはかることができない遠方の時間を、自己幻想の時間に無理やり圧縮したような心持ちをさそうカラクリが隠されているのだ。逆にいえば、自己幻想に繰り込まれた共同幻想と自己意識との角逐や離反が予想されており、言語思想の一文としてみれば、死の意識は、たえず、人間の「個」と「類」の「絶対的な矛盾」そのものとしてあらわれざるをえないのである。
それは共同幻想からの自己疎外感のあらわれに相違ないが、といっても、あくまでも自己意識の転倒でしかないから、逆に、死の意識は共同幻想に対する渇望の表現にはならない。実際に吉本が例に挙げているところによれば、遠野の鷹匠は山奥で山人に出会い、格闘したあと家に帰り、死ぬかもしれないとおもいながら、3日ほどして実際に死んでしまったとある。ほんとうは疲労困憊して幻覚におそわれ、足をすべらして谷底に墜ちて打ちどころが悪く、死んでしまったという事実にすぎないが、山人という共同幻想の対象との関係づけで死んだ場面にかぎってみれば、共同幻想への同致によって死を包み込むことで、みずから死をまねき寄せたと解釈することができる。その場合にも、死の欲望がすなわち共同幻想への渇望ということで考えられなくもない。わたしたちが死に対して抱く不安や恐怖を見透かしてみると、家族、親族、友人との「関係」の断絶にともなう感情であることは、手安く予想できるからだ。
共同幻想への渇望にみえるかもしれないそのような見方に対する吉本の答えはふたとおり用意されている。ひとつは、そういう死への渇望がおきるときには、必ず、背景に共同体生活の経済的な貧困など現実的な人間「関係」の不全が横たわっていることである。もうひとつは、『共同幻想論』のテーマである「関係」の位相の違いという方法で切開できると考えられた。
そういう関係妄想の世界からいったん離陸して、人間はどうあるべきか、いや、どう死ぬべきかについて、どんな答えが紡ぎだせるのかということが、わたしたちに課せられた最後の課題にちがいない。
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